1. 2.Faulknerの作品に見られるPaternalismと人種差別

2.Faulknerの作品に見られるPaternalismと人種差別

海上 順代 東京都立産業技術高等専門学校


William Faulknerの黒人像は多くの批評家が分析してきたが、現在定着している評価をふまえつつpaternalismという概念から再検討する意義はあるのではないだろうか。Faulknerの黒人像の批評は、初期の作品で断片的に現れる黒人への言及に始まり、後期の作品の主要登場人物となるLucas Beauchampの人格、特に独立心や威厳を高く評価する傾向にある。しかし初期・中期の作品の黒人登場人物も、paternalismという観点からLucasと比較して興味深い点が多いと思われる。白人の黒人に対するpaternalismに注目することで、Lucasに劣らず他の黒人登場人物も南部白人のエゴを映し出す「鏡」としてその完成度を再評価できるのではないだろうか。

Faulknerの作品でもSoldiers’ Pay (1926)など最初期の作品では、風景の一部のように黒人の姿が垣間見られるだけであるが、Yoknapatawpha Sagaの最初の長編小説Sartoris (1929)から黒人登場人物の人格が描かれ始める。SimonはSartoris家に仕えてきたが、白人の主人の「良心」につけこむ黒人として表象されている。預かった金銭を又貸しし、主人のBayard Sartoris (old Bayard)に損失分を肩代わりさせる彼は、old Bayardが自分を罰することが出来ないと居直っているのである。しかし白人に損失した金銭の支払いをさせる、白人より道徳的に劣る黒人、という白人が求める「黒人像」に当てはまるSimonは、白人の脅威にはならない。Simonはpaternalismを利用し利益を得ているのであるが、「自尊心を持たない黒人像」という白人が望む黒人像に同化しているのである。

30年代のFaulknerの人種問題を扱った作品Absalom, Absalom! (1936) では、白人とCharles Etienne de Saint Valery Bonなど「混血児」の関係が描かれている。白人たちの差別意識からくる冷遇だけでなく、paternalisticな対応も、白人にとって混血児は「黒人」でしかないことを表していると思われるのである。

後期の作品では、paternalisticな対応に反発する黒人だけでなく、そうした対応への白人側の違和感や変化も描かれている。そして、Go Down, Moses (1942)の“The Fire and the Hearth”に続き、Lucasが中心的人物となるIntruder in the Dust (1948)では、Lucasのpaternalisticな対応への反発と拒絶が描かれている。Lucasの明確な態度から、Lucasのみが「白人にも劣らない自尊心や人間性を持った黒人」である印象を読者に与える。しかしそれは、Lucasに白人名家の血が流れているという背景やそれに伴う財産がある為と考えられる。この点を考慮すると、時にはコミカルで、時には常軌を逸した言動で白人を翻弄する「黒人」が、誇るべき血縁も財産もない立場で、(意図的でない場合があるにしても)白人のpaternalisticな心情に訴えずには「有利な状況」や「自分の居場所」を手に入れられなかったとも考えられるのである。今回の発表では、Kevin RaileyのNatural Aristocracy 等のpaternalismの先行研究を踏まえつつ、階層化された南部社会に於けるFaulknerの黒人像を再検討してみたい。