1. 1.“Three Thousand Years Among the Microbes”における死と救済

1.“Three Thousand Years Among the Microbes”における死と救済

浜本 隆三 同志社大学(院)


Mark Twainが70歳を目前にして書いた未完の草稿“Three Thousand Years Among the Microbes”(以下“Three Thousand Years”)は、細菌らとの対話に物語の主軸がおかれ、取り上げられる話題は人類史から宇宙論まで多岐に渡り、一読では理解しづらい混沌とした作品である。だが、物語の冒頭で強調される、人間と細菌の世界を隔てる物理的な差異が、後半部で語られる対話の主題として取り上げられている構成に気がつけば、首尾一貫した作品像が浮かびあがる。“Three Thousand Years”は構成だけでなく、描かれる物語も完結しているように思う。発表を通し、この作品が死と救済について語られた物語である点を論証する。

まず、なぜTwainが細菌の世界を描いたのか明らかにしなければならない。Twainは善・悪二元論的な世界観の枠組みのなかで、‘Huck’を悪性のコレラ菌として描くことによって、悪である自分であっても救済されるのかどうかを問う筋書きを前半部に設けた。結果、悪性を極めるAfrican Sleeping Sicknessの菌から、万物は確かに救済されると‘Huck’は教えられるが、ここで、救済の確証を与えた存在が、善ではなく神でもなく、悪の頂点に立つ細菌であった点に注目しなければならない。絶対悪から諭される救済の確証。この逆説的で皮肉な構図に、救いを求めるTwainの迫真性と切実さが読み取れる。

細菌の科学者と‘Huck’との対話は、埋まらない世界認識のズレを滑稽に描きつつ、その実、両者に共通する人間的な資質を暴き出していく。‘Huck’が語る「真実」をフィクションだと言い張る細菌の頑固な姿には、人間臭い意固地な性格が認められる。合理性、論理性にはうるさい彼らであるが、‘Huck’がでっちあげた「黄金郷のフィクション」を、真実だと妄信するその姿から、細菌も‘Huck’さえも、しっかりと物欲を宿した不合理な生物である点が明らかになる。つまり、理性的な世界観のズレは、学者の卑小なプライドとして炙り出され、両者の差異は、人間臭い資質によって越えられているのである。細菌と人間との差異が消滅したこの先に、どのような物語が期待できようか。

結末部で‘Huck’は長い眠りにつく。彼を眠りへと導いた安らぎは、黄金をひとり占めできると確信した安堵にあったわけではない。細菌と自分との共通性にこそ安寧の核心がある。というのも、科学者らと自分との間に見いだされた人間臭い性質は、死の権化ともいえる悪性の細菌との共通性でもあり、ここに死と和解した‘Huck’の達観が認められるからだ。

「救済の確証」と「死との和解」、発表ではこの二つの筋立てにそって“Three Thousand Years”を読み解き、ちょうどOliviaの一周忌を挟み執筆に励むなかで、心の安寧を模索するTwainの姿について論じる。