1. 2.Kate Chopinの“Lilacs”における異性愛と同性愛の二重性について

2.Kate Chopinの“Lilacs”における異性愛と同性愛の二重性について

宇津まり子 山形県立米沢女子短期大学


Kate Chopinの短編“Lilacs”(1896)については、1970年代のChopin研究の初期から主人公AdrienneとAgatheを巡るレズビアン解釈とヘテロセクシュアル解釈が共存している。どちらが正しいのかという軍配ではなく、この両義性がどのように可能になっているのかを探るのが本発表の目的である。

5年程、毎年春に2週間、修道院を訪れていたAdrienne Farivalが、ある年、唐突に門前払いされ、相互に強い愛着を感じていたAdrienneとシスターのAgatheが、修道院の内と外で泣き崩れているという物語であるが、追放の理由として、女優であるAdrienneの普段のパリでの生活がMother Superiorの耳に入ってしまった、あるいは2人の間に女同士の愛情が存在していたという2つの解釈が存在してきた。

ヘテロ解釈を採る批評家が注目するのは、Adrienneのパリでの生活全般、特に、1年の間に2つの名前が挙がる男たちとの愛人関係、そしてそれらを隠し、あるいは偽って修道院を訪問していたという虚偽性である。しかし、10ページ程のこの作品は、そもそも修道院での数日とパリでの2日しか扱っておらず、また語り手や登場人物たちの言葉を詳細に追っても、Adrienneがなぜ毎年修道院を訪れるのか、訪れることで何を考え、感じているのか、パリでの生活にどういった問題があるのか等については、具体的には言及していない。

それにも拘らず、多くの批評家がAdrienneの人格にどこか問題があるかのように解釈してきた。それには、この作品がAdrienneを舞台に上がり、公に身体をさらし、歌い、演じるという「女優」として設定していることが大きく影響している。娼婦と共に「公の女」とされる「女優」には、演じるという仕事から派生する虚偽性や性的放縦さなど、様々なイメージがつきまとう。“Lilacs”はこれを参照点として設定し、テキスト外からAdrienneという人物を規定するという構造を取っている。「女優」という設定は、Adrienneが子ども時代を過ごした修道院を無垢に懐かしんでいると捉えることを阻害し、そこに意図的な演技や悪意を読み込ませ、会話の中に登場するだけで姿さえ見えない男たちを「愛人」として読み込ませる。

Chopinの別の短編“Fedora”(1897)について、最後の女同士のキスシーンがレズビアン解釈の起点になるとC. Bucherは指摘しているが、“Lilacs”の最終場面でも、Agatheはわざわざ前年にAdrienneが眠ったベッドまで行って泣いており、そういった意味では “Fedora”と同様の構図を取っている。そして上述したように、「女優」に人物規定をさせ、作品自体には多くの空白を残すという構造が、レズビアン解釈をも同様に成立させていると考えられる。