1. 2.エマソン主要エッセイの語り手――エマソンの魅力を探る

2.エマソン主要エッセイの語り手――エマソンの魅力を探る

藤田 佳子 神戸女学院大学(非常勤)


Melville やHawthorneのようにテクストの精読が新たな評価を導き、新たな方法論を生み出すという段階に、Emerson研究はまだ達していないようだ、とMichael Lopez(1996)は述べている。この事情は10余年後の今も変わっていないようだ。むしろ、“political Emerson”、“multi-cultural Emerson”といった、従来の「コンコードの賢人」イメージを修正する新たなEmerson像構築に近年の特徴は見られる。しかし、Emersonを論じまた教える際に、主要エッセイが避けて通れぬものであれば、われわれはいかにそれに対処すべきだろうか。研究者にとってエマソン・エッセイの最大の難点はその矛盾にある。Emerson研究に画期的方向付けを与えることになるS. Whicherはその矛盾を初期楽観思想から後期懐疑思想への展開という構図の中に解明・解消した。また近年のアメリカニストらはEmersonの脱超越主義化を試み、むしろ非超越論的要素の中にこそEmersonの本質を見ようとする。だが一方で、エッセイを文学作品として考察する立場もまたありうる。その場合には語りそのものが重視されなければならないだろう。エッセイの中の発言はすべて等価なのだろうか?語り手と読者、語り手と作者の距離は不変なのだろうか?

今、試みに『エッセイ集』から“Circles”、『同、続編』から“Nature”を取り上げ類似の思想を『日記』の中に求めてみると、エッセイの方には明らかにポーズ(pose)がある。Emersonのエッセイをエッセイたらしめているものはペルソナの存在なのだ。この特徴は、Emersonが愛好したモンテーニュの『エセー』と比べてみても明らかである。例えば、有名な“On Cannibals”では、人を驚かせる内容を含みながらも作者は終始誠実に熱をこめて語り、ためらいや距離の揺れは見られない。一方、Emersonのペルソナは、読者の全面的信頼を要請しながらも突然のトーンの落ち込みや上昇で当惑を招く。彼の文言を文字通り受け止めれば内容の矛盾が浮かび上がってくる。なにしろ、「われわれは多数の衣を着けて語ってよいのだ」(『日記』)と述べるEmersonであり、「わたしは実験しているだけだ(信を置くな)」と言い放つペルソナである。ペルソナの演技と見れば、ここに一人の創造人物の姿が躍動しているわけだが、論旨を追うには事実、困難が伴う。

それ故にこそEmersonは各エッセイの冒頭に自作の詩をエピグラフとして掲げたのだと思われる。そこでは難解ではあるが美しい詩的言語を通じてエッセイの基本理念がうたわれる。Emersonの生の声が響く。このあとではEmersonはかなり自由にペルソナに語らせることができるだろう。Emersonは語りを楽しんでいたのかもしれない。そしてわれわれはもう少し余裕を持って彼のエッセイを読んでもよいのかもしれない。

Emerson におけるペルソナの概念は最初に L. Buellによって提唱され(70年代)、次いで L. Neufeldtによって細分化された(80年代)。しかし以後発展は無い。本発表では優れた先行研究を出発点としてさらに、「距離」や「焦点化」といったナラトロジーの概念も援用して考察を進め、エマソン・エッセイの魅力を考えたい。