1. 4.前向きの意識と後ろ向きの意識――William JamesとHenry Jamesにおける時間性

4.前向きの意識と後ろ向きの意識――William JamesとHenry Jamesにおける時間性

齊藤 弘平 青山学院大学(院)


「思わせぶりな言及を果てしなく練り上げていく、物語の方法」が「見事な効果」を上げている−Henry JamesのThe Golden Bowl (1904) を読み終えた後、兄Williamは弟への私信でその小説芸術としての達成を称えながらも、「お前の方法と私の理想はどうやら正反対のように思える」と続けて述べている。そして、次の作品に取り組む際には「プロットをぼんやりとさせたり、言い逃れだらけの会話の応酬をしたり、心理学的なコメンタリーをしたり」することなく、「まったく衒いのないまっすぐなスタイル」で書いてほしいと懇願までしている。晩年The American Scene (1907) を読んだ感想を伝える私信になると、空気や光などの「触ることのできない素材」を描写しつづけることで、読者にそれらの「知覚」を喚起させようとする弟Henryの方法/スタイルは「ユニーク」ではあるが、ただ事物や対象の「芳香」に到達するだけで、世界の「見せかけ」(simulacrum)を提供するだけであると、兄Williamは一層批判の色を強めることになる。

このWilliamからHenryへの私信で表明されている難色は、単なる兄弟間の仲違いのドキュメントとして読み過ごすこともできなければ、また哲学的厳密性と小説的遊戯の間にあるスタイルや趣味の違いへと還元できるものでなく、より大きな問題を提起している。一方は心理学的/哲学的な真理探求のための基礎づけとして、他方は小説における物語の原理として、それぞれ「意識」という心的現象について同時代に考察し書きつづけたゆえ、いまや余りにも一般化された「意識の流れ」という文化的符丁のおかげもあって、James兄弟の「意識」についての理解、定義、表象の仕方は、往々にして共通性を有していると考えられている。古くはRichard Hocksが説いたようにHenryはWilliamの哲学における「意識」や「真理」の定義を「適用」し「ドラマ化」した小説家であると言えるし、近年ではRoss Posnockが説くように両者ともに「流動性」「浸透可能性」(permeability)によって基礎づけられる近代的主体観を、不断に流れゆく自己意識こそを原理とする著作群をもって確立していると言える。しかし、前述のWilliamの私信がそれとなく知らせてくれているのだが、実は両者のテキストにおいては、「意識」を巡って、世界の表象を巡って、根本的に「正反対」の見地がある。

本発表では、その決定的な差異を、「意識」の現れ方を支配する時間性に探り当てたいと考える。Williamの哲学においては、心理学的な意味でも形而上学的な意味でも、「意識」は常に継起/進行の様相をもって、いわば<前向き>に発展していくものと把握されている。反して、Henryの3部作や “The Beast in the Jungle” (1903) などの後期作品においては、「意識」は常に「予期」や「回想」といったかたちで時間軸のワープを経験することで生じる。その事態は、「回想」=いわば<後ろ向き>の時間性を表象するための、過去完了形の多用という小説技法上の執拗な実践に観察できる。そして、このHenryによる<後ろ向き>の時間性こそが、プラグマティズムからリベラリズムまで連綿と継承されている、時間の線状的・継起的な「連続性」、または主観が対象を実定的かつ直接的に認知できるとする認識論など、世紀転換期アメリカの知的メインストリームが有した進歩主義的で<前向き>な諸前提に対抗するかのごとく、人間心理における複雑で不透明なメカニズムを書き込む文学的実践となっている。

WilliamとHenry両者の「意識」及びその時間性の表象を比較して論じることで、研究史上十分に省みられることはなかったし、勿論本人たちの口からも明らかにはされていない、James兄弟間にある根本的な<方向性の違い>を見定めたい。