1. シンポジアムU(東京支部発題)(般2−302教室)

シンポジアムU(東京支部発題)(般2−302教室)

アメリカ文学・文化表象におけるInterracialism―21世紀「アメリカ」を展望する

司会・ 講師
愛知県立大学 村山 瑞穂
アジア系アメリカ文学におけるInterracialism―異人種間結婚(恋愛)のテーマを中心に
講師
広島女学院大学 森 あおい
アフリカ系アメリカ人文学に見るInterracialism
國學院大学(非常勤) 井村 俊義
混血の修辞法:チカーノが提示する文学作品の新たな地平
椙山女学園大学 長澤 唯史
“Queer is Pop”: RaceとSexualityの共犯関係とその転倒



2000年のU.S. Censusは、人種選択項目に初めて「混血(Two or more races)」の選択肢を導入し、今年、2009年には、アメリカ白人女性とケニア人男性の間に生まれたBarack Hussein Obama, Jr. が第44代大統領に選出された。しかし、問題は、オバマが背景として持つ「混血」としての側面が捨象され、彼がアメリカ初の黒人大統領として称揚され、再び白人対黒人の二項対立の言説に飲み込まれていく現実かもしれない。次のセンサス実施を間近に控えたこの時期、本シンポジウムでは、異人種間結婚(恋愛)や人種混交の問題を含み、今でもなおタブーとして敬遠されがちなテーマ、アメリカ文学・文化表象におけるinterracialismの問題をあえて取り上げてみたい。

文学を中心に、美術や歴史、法律など学際的なアプローチからアメリカにおける白人と黒人間のinterracialismの特異性について精緻な分析を試みるWerner Sollorsの卓越した仕事(Neither Black Nor White Yet Both, 1997)もこれまで十分に注目されてきたとは言いがたいが、本シンポジウムでは、黒人と白人間の問題に加えて、アジア系アメリカ文学やチカーノ/チカーナ文学、さらには、文学テクストだけでなく映画等のマスメディア表象におけるinterracialismにも議論を広げ、異人種間関係をめぐるテーマをよりダイナミックに展開させてみたい。シンポジウムの報告では触れることのできないヨーロッパ系やネイティヴ・アメリカン、ユダヤ系など、様々な文学・文化ジャンルからのご意見もフロアからいただき、自由闊達な意見交換により、議論を深めることできれば幸いである。

2008年のMLAジャーナル、PMLA の特集、Comparative Racialismでは、アメリカ国内の錯綜した人種・民族関係の問題とともに、これらをアメリカ国家の枠組みを超えた新しい視点から議論する必要性が強調されていた。本シンポジウムの報告でもその点を考慮しつつ、アメリカ文学・文化表象におけるinterracialismの歴史的な流れをそれぞれの報告者の視点から概観し、比較的新しい作品の紹介、テクスト分析も交え、現在から未来へ向かう「アメリカ」を展望してみたい。このことは、「アメリカ」を超えて、我々自身の未来の人間像、人間関係の展望にも繋がるであろうことは言うまでもない。


(文責 村山 瑞穂)



愛知県立大学 村山 瑞穂


およそ異人種間関係にまつわる問題と完全に切り離されたアメリカ文学テクストなど存在しないであろうが、アジアからの移民たちやその子孫によって書かれてきた文学をアジア系アメリカ文学と定義するなら、Toshio Moriの短篇集、Chauvinist and Other Stories (1979)の序文で、日系人の閉じられたコミュニティ内部のみを描いているかに見える物語群の背後に歴然と存在する人種(差別)関係を看破するHisaye Yamamotoの指摘を待つまでもなく、この文学ジャンルにおいても、それは例外ではない。

ただし、ヤマモト自身がそうであるように、このテーマをより意識的に取り上げ、前景化する作家たちが存在することも事実である。今回の報告ではinterracialismに関連して、とくに異人種間結婚(恋愛)のテーマについて様々にアプローチを試みるアジア系アメリカ文学テクストを取り上げる。『蝶々夫人』以来作り上げられてきた悲劇的異人種間結婚のステレオタイプをはじめとして、アジア系アメリカに関するinterracialismにまつわる問題を時代を追って大まかに整理した上で、このテーマについて現在から未来へ向けて強いメッセージを発信する先端的テクスト(Karen Tei Yamashita, Chang-rae Lee, Gish Jenなど)の具体的分析を試みてみたい。

その際、常に白人と黒人の中間に位置づけられ、排他的移民法や強制収容などの差別に晒される一方、「モデル・マイノリティ」として他の人種的マイノリティから差異化されてきたアジア系アメリカの歴史的特殊性を見据えながら、さらなる多様性と越境に開かれてゆくアジア系アメリカ文学テクストが、「アメリカ」が抱える人種問題を白人対黒人の二項対立から放つ新しい関係性構築の可能性や困難について、どのような言説を紡ぎだしているのか考察してみたい。


広島女学院大学 森 あおい


アメリカのヒエラルキーを構築する要素の一つは、長いあいだ人種であった。にもかかわらず、人種ほどその定義がはっきりしないものはない。むしろその曖昧性が、根拠のない人種差別を制度化するのには好都合で、黒人との人種混交を恐れる白人は、一滴でも黒人の血が流れていれば黒人とする「一滴の血液のルール」など、基準の説明がつかない掟を定めた。

アフリカ系アメリカ人文学は、奴隷制時代の「奴隷体験記」から、黒人性を肯定するハーレム・ルネッサンス期の文学、その後に続く、リチャード・ライトらによる、いわゆる抗議文学に至るまで、アメリカにおける人種混交を忌避するポリティックスを反映してきた。その流れに変化が訪れるのは、公民権運動以後、少数民族優遇政策が施行された後のことであった。この時代以降に生まれた作家、あるいは成長した作家は、公民権運動に直接関わることなく育ち、制度上は差別のなくなった社会で教育や雇用などに関しても白人と同様の機会を得、人種の枠を超えたもっと自由な立場から創作活動を行なうようになった。アフリカ系アメリカ人の作家・批評家のネルソン・ジョージは、この時代を、公民権時代、音楽で言えば、ソウル・ミュージックの時代以降という意味で、「ポスト・ソウル」と呼んでいる。

黒人初のアメリカ大統領として注目を集めているバラク・フセイン・オバマもポスト・ソウル世代に属している。ケニヤ人の父、アメリカ白人の母のあいだに生まれ、両親離婚後、母が再婚すると義父の故郷、インドネシアに移り住んで幼少期を過ごし、その後、様々な人種が共存するハワイで母方の祖父母のもとで育ったオバマは、アメリカの白人と黒人、ケニア、さらにアジア、ポリネシアの人々の文化を吸収してきた。彼が体現するのは、一つの人種に囚われない、異人種混交から生まれた多様性を容認するInterracialismであろう。

しかし、Interracialismが人種の違いを超越する一方で、アメリカ社会から人種の問題がなくなったわけではない。トニ・モリスンは、人種がヒエラルキーを構築してきたアメリカの歴史を踏まえて、「人種が問題とはならない」スペースを、文学を通して構築しようと目論んでいる。モリスンの最新作、A Mercy は、17世紀のアメリカ植民地を舞台に、人種を問わず人々が差別や抑圧、支配と葛藤する姿を描き出す。本発表では、これまでアメリカ社会で多くの軋轢の原因となってきた人種の問題について、モリスンが提唱する「人種が問題とはならない」スペース構築の試みと照らし合わせながら検討していくことにする。


國學院大学(非常勤) 井村 俊義


チカーノは混血であることを重層的に自覚している人びとである。インディオとスペイン人のあいだに生まれたメキシコ人が、米墨戦争によってアメリカ南西部を侵略されたことで「メキシコ系アメリカ人(チカーノ)」は生まれたからである。混血の身体のなかをさらに「アメリカとの国境線が通過した」[彼ら]は、「クレオール性」や「重層的な時空間」を強烈に意識しながら芸術作品を生み出してきた。チカーノ文学の最初期から現在に至るまで重層性を意識せずに書かれた文学はなく、また、映画や壁画、音楽やパフォーマンスなどの多岐にわたる方法でしか表現できない自らの存在様態を主張してきた。

しかし「混血」であるとは、ある種のエセンシャリズムを前提とした概念であることもたしかである。混血を生むそれぞれの単位もまた、じつは混血と考えることができるからだ。チカーノの身体を構成しているスペイン人もさまざまな民族の混血であり、当時のアメリカも「白人」国家と単純化することはできない。たとえば、一般に「白人」とされるオバマ大統領の母親の血には、スコットランド人、アイルランド人、チェロキー人の血が流れていると言われている。しかしまた、私たちはどこかに境界線を引くことなしには「誰かを名指す」ことができないという事実も指摘しなければならない。日系アメリカ人を「日本人」と「アメリカ人」の揺らぎのなかで恣意的な存在としているのは、彼ら自身ではなく私たちの側の定義と認識の問題にあるのだろう。

それらの事実をふまえて、チカーノは、混血を純血の対立概念として捉えるのではなく、混血を常態としながら多様なアイデンティティのあり方に焦点を当てる。チカーノ詩人のアルフレッド・アルテアーガ(Alfred Arteaga)は、英語やスペイン語やナワトル語(アステカ帝国の言語)を同居させてチカーノがインディオの末裔であることを表現するとともに、アステカの思考方法や現代思想、さらには、古今東西の文学作品を取り入れながら、きわめて冒険的かつ原初的な作品を提示した。「原初的」とは、国家原理や国家言語の縦割りのなかで位置づけられていた文学を解放し、誰もがそうであろう「混血の身体」を起点として、国家原理に従属しない多様なアイデンティティや共同性のあり方を意識させる「懐かしさ」ということである。アルテアーガの世界は途方もなく巨大である。その一端でもご紹介することによって、さまざまな立場からの共鳴があることを期待している。


椙山女学園大学 長澤 唯史


アメリカの大衆芸術には、人種混交への嫌悪、恐怖、忌避の表象が満ちている。D. W. Griffithは『国民の創世』(1915)や『散り行く花』(1919)で、Cecil B. DeMilleは『チート』(1915)でそれぞれ、アフリカ系アメリカ人やアジア人を、白人女性を性的に脅かす存在として扇情的に描いている。大衆受けのパルプ雑誌の表紙は、エイリアンや異生物に捕われる半裸の白人女性がお約束として飽くことなく登場する。そうした雑誌の一つに掲載されたH. P. Lovecraftの”The Shadow Over Insmouth” (1936)は、interracialismやmiscegenationに対して、大衆が潜在的に持っている恐怖や嫌悪を反映した好例と言えるだろう。そしてこの嫌悪や恐怖が19世紀末の性言説と結び付き、非白人とqueernessを等価視する言説を派生させたことは、Siobhan B. Somerville (2000)に詳しい。

一方で、こうした人種混交への嫌悪や忌避を免れている(ように見える)大衆文化ジャンルがポピュラー(ポップ)・ミュージックである。ジャズやブルースは純粋な黒人音楽ではなく、クレオールや南部黒人が白人音楽と出会った場所から生まれたものであることは、Leroi Jones (1963) やRobert Palmer (1981) が指摘するところである。また一方でこうした”Black Music”の圧倒的な影響力のもと、20世紀以降のアメリカ大衆音楽が発達してきたことも言うまでもない。もちろん音楽界を人種的なユートピアと主張するつもりもさらさらないが、他ジャンルと比べて非白人の存在感がいかに圧倒的であるかは、「マイケル・ジャクソン」という名を一つ挙げておけば事足りるであろう。

さてそれでは、マイケル・ジャクソンやプリンスは、非白人に付与されたqueerなイメージを払拭することでスーパースターになりえたのであろうか。おそらく事実は逆で、大衆音楽がracismを軽々と克服しえた(かのように見える)のだとしたら、それはこのqueernessを肯定的なイメージに転化したからではないのか。プレスリーもビートルズも、デビュー当時はqueerな存在ではなかったか。本発表では、interracialismとqueernessに着目することで、何が見えてくるのかを考察したい。どこに行きつくかは、いまだ発表者にも不明であるが。