1. 第12室(般1-403教室)

第12室(般1-403教室)

開始時刻
1. 午後2時00分 2. 午後2時55分
3. 午後3時50分 4. 午後4時45分(終了5時30分)
司会 内容
舌津 智之

1.TomとLauraの〈やさしい関係〉――The Glass Menagerie 再読

  山下 興作 : 高知大学

竹島 達也

2.アメリカン・ガネーシャ――Terrence McNallyのクィアな想像力

  天野 貴史 : 大阪大学(非常勤)

3.Edward AlbeeのThe Goat, or Who is Sylvia? における「崩壊」

  森  晴菜 : 大阪大学(院)

 

4.セッションなし



山下 興作 高知大学


アメリカにしろ、日本にしろ、多くの人にとってThe Glass Menagerie は愛すべき作品に違いない。

1930年代のアメリカの都市セントルイスというごく限られた時空間を背景として、1944年に生まれたこの劇が、いつの時代、どこの場所に生きる者にも通じる普遍性を持っているのはなぜだろうか。また、今日の日本で舞台に掛けるとすれば、どのような点に注目すればよいだろうか。今回の発表はこうした素朴な疑問を出発点としている。

Tennessee Williamsに限らず、1930年代を背景にしたアメリカの劇は、そのほとんどが大恐慌による苦悩と不正を描いている。だが、The Glass Menagerie は、そういった社会的、経済的なテーマを前面に押し出すことからは無縁である。Williamsの視線の先にあるのは、ひたすら、脆く傷つきやすい人間の姿である。求めるものが得られず、望みがかなわなかった挫折感を味わう。こういったことは、程度の差こそあれ、誰の身にも覚えのある体験であろう。家族の一員としての義務感、自由への渇望、そこに端を発した家族との軋轢、成長の苦しみ、そのために切り捨てなければならなかったもの、そしてその先にある言いようのない孤独……。語り手Tomをはじめ、The Glass Menagerieに登場する人々のすべての中で描かれるこういった苦悩や体験が、この劇を見る者全てに深い共感を呼ぶ。この作品が持つ普遍性の理由の一端はそのあたりにありそうだ。

実際、今日の日本にもTomやLauraの末裔たちが満ち満ちている。土井隆義の『友だち地獄』によれば、今日の若者たちは、誰からも傷つけ得られたくないし、傷つけたくもない。そういう繊細な<やさしさ>の持ち主であるがゆえに、生きづらさにあえいでいるという。周囲から浮いてしまわないよう神経を張りつめ、その場の空気を読む。誰にも相手にされなくなることにおびえながら、ケータイ・メールでお互いのつながりを確かめ合う。言い換えるなら、孤独を恐れながらも、濃密な人間関係から撤退してしまうことで、自分の身を守ろうとしている若者たち。

そこで、この発表ではThe Glass Menagerie におけるTomとLauraを中心に、お互いや家族、友人との距離の取り方、また父親の不在の意味を、この<やさしさ>をはじめ、今日の若者を取り巻く環境の視点から再検討し、そのうえで、それを生き延びたTomと取り残されたLauraの分岐点はどこにあったのかを、考えなおしてみたい。

そうすることで、一見すると、保守的で、衝撃力に欠けるにも関わらず、繰り返し再演を重ねているこの劇の魅力を捉えなおすとともに、今日の日本で舞台にかけることの意義について議論する題材を提供できればと考えている。


天野 貴史 大阪大学(非常勤)


インドのヒンドゥー教にガネーシャ神話というのがある。帰ったシヴァが妻パールヴァーティーの沐浴場を訪れると、見知らぬ少年が門番をしていた。少年は中に入ろうとするシヴァの前に立ちはだかり、シヴァの凶暴な手下が襲いかかっても微動だにしない。最高神ブラフマーでさえ歯が立たず、やがて少年の存在そのものに脅威を感じた神々が総攻撃を仕掛けるもを守るため駆けつけたパールヴァーティーに阻まれ、全滅する。ついにシヴァみずからが立ち上がり、三叉矛で少年の首をはねて決着をつけた。

少年はなぜ殺されたのか。少年のセクシュアリティに着目し、神々から性的倒錯者呼ばわりされた少年が弾劾・処刑されるというセイラムの魔女狩りならぬ「天上界のゲイ狩り」を幻視したのが、ゲイの劇作家Terrence McNallyである。もっともこうした想像力は男性同性愛者特有の感性というわけではない。よく知られるように80年代のアメリカではエイズ危機を引き金として同性愛嫌悪・恐怖症が一気に拡大した結果、身近なテクストのなかにホモフォビックな寓喩をあらためて発見することが大流行した。McNallyのインド訪問はこうした寓喩発見ブームの渦中だったから、ガネーシャ神話にエディプス的な構図や道徳よりも、異質なる性的少数派の弾圧を見出したのだろう。かくして幻想のゲイ狩りは、襲撃に遭った少年を母親が見殺しにするという「自然な」結末を迎える。いかに孝行息子といえどひとたび性的異端の烙印を捺されてしまえば、もはや「愛するわが子」としての資格を失うのである。

しかしMcNallyの想像力は驚くべき転回をみせる。そもそもシヴァはいずこともなくふらつきまわっては浮気を重ねる放蕩者で、妻の下にはしか帰らず、そこで妻のパールヴァーティーが夫の度し難い浮気に抗議するため息子に門番を命じたのだ。そして肝心なのは、この淫蕩なる夫が原因で妻がHIVに感染したことである。ただし夫はいわゆる‘4-H list’の一員ではない。自身にしても貞淑な妻であることを守り通してきただけに、彼女はエイズはゲイの病気であるという「通念」を根底から覆す事態に驚愕しつつ、何より醜聞を恐れて感染の事実をだれにも告白できないでいる。

かくして93年の戯曲A Perfect Ganesh は、ガネーシャ神話に準拠した二つの、互いに代補関係にある物語―同性愛嫌悪の物語と異性愛間HIV感染の物語―により構成されている。だがそれだけにひとつの疑問が生じる―それではMcNallyはガネーシャの誕生をどのように解釈したのか。というのもじつのところ神話は、はねた首の代わりに象の頭を付けて生き返らせた少年をシヴァがガネーシャと名づけて愛するわが子に迎え入れるというように、新しい「家族」のはじまりを祝福するものだからである。そこで本論では、Paula Treichlerが‘an epidemic of signification’と呼んだ80年代以降のAIDS/HIVに関する文化現象との共振/からの逸脱に注目しながら、本作品を濃厚に特徴づけているMcNallyのクィアな想像力に迫る。


森  晴菜 大阪大学(院)


Edward AlbeeによるThe Goat, or Who is Sylvia? (2002)の主人公であるMartinは社会的成功を収めた人物であり、息子Billyがゲイであるという事実も受け入れ、平穏な家庭生活を送っている。しかし、そんなMartinの人生は彼がヤギSylviaと不倫関係にあると明らかにしたことから、彼の家庭をも巻き込み崩壊していく。

Martinによるベスチアリティ(獣姦)が強烈なインパクトを与えるこの作品は、彼の行為の倫理的な是非を問うためだけのものではない。ここで重要なことは、登場人物の誰もが個人的な嗜好、言動がどこまで許容されるかを決定できないという点である。友人Rossは真実が世間に知れることによってMartinの社会的立場が脅かされると行動を規制する。その一方で、Martin本人はSylviaへの愛情は本物だと信じて疑わず、周囲の人間に激しく非難されながらも、ヤギとの肉体関係を間違っているとは受け入れない。家族や友人から幾度も「ありえない」と批判されるMartinのこの愛情を目の当たりにし、Billyですらも「自分は少なくとも人間を相手にしている」と父親を断罪する。この言葉は、獣姦という極端な行為にでた父と自己のセクシュアリティを自ずと対比させるもので、当初は許容されていた彼のホモセクシュアリティも浮き彫りにされ再考を迫られる。さらに作中では父と息子の近親相姦を連想させる関係性、赤ん坊を抱いている際に性的興奮を経験した男性の逸話など常識ではタブーとされる性が描写され、Martinによる獣姦の告白は様々な問題の浮上、セクシュアリティにとどまらない社会通念の再検討の契機となっている。これにより示されるのは社会的言説を規定するルールがいかに曖昧であるかということである。観客は、この不確定性によってMartinが抱く大きな孤独、さらに彼を取り巻く家族、友情の崩壊を目撃し、人間のセクシュアリティがどこまで許容されるのかという判断へと誘われる。

この作品の結末はMartinとSylviaの関係に激昂した妻StevieがSylviaを殺し、その死体を引きずって現れるというさらに衝撃的な場面で幕を閉じる。本発表では、このようなStevieの破壊行為にも着目しながら一般的な社会通念とその曖昧性を起点とした論を展開し、さらにはAlbeeの家族劇に対する新たな視座の提供ができれば幸いである。