1. 第11室(般1-402教室)

第11室(般1-402教室)

開始時刻
1. 午後2時00分 2. 午後2時55分
3. 午後3時50分 4. 午後4時45分(終了5時30分)
司会 内容
伊藤  章

1.娘として母として――ケネディ劇における家族

  伊藤ゆかり : 山梨県立大学

2.現代を映す鏡としての古典ギリシア悲劇――その変容と更新

  堀 真理子 : 青山学院大学

梶原 照子

3.Paul Simonの詩における愛、死、そして自殺

  渡久山幸功 : 沖縄キリスト教学院大学(非常勤)

4.ディアスポラのアジア系アメリカ人の視覚詩――エスニック・アイデンティティと文化的多様性の表出

  吉岡 由佳 : 神戸大学(院)



伊藤ゆかり 山梨県立大学


Adrienne Kennedyの戯曲に顕著な特徴としてしばしば挙げられるのは、登場人物のアイデンティティの不確かさである。第1作のFunnyhouse of a Negro において、主人公Sarahは、彼女自身およびQueen Victoria Regina、Duchess of Hapsburg、Jesus、Patrice Lumumbaという5人の存在によって表される。第2作のThe Owl Answers でも同様に、主人公であるClara Passmoreは、the Virgin Maryであり、the Bastardであり、the Owlでもある。この設定によって、アイデンティティがいかに流動的で不安定であるかが、舞台上に表象されるのである。中期以降Kennedyは、黒人劇作家Suzanne Alexanderを主人公としたthe Alexander Playsと呼ばれる一連の作品を書いている。主人公は作家としてのアイデンティティを確立しているように見えるのだが、やはりアイデンティティは揺らぐ。たとえば、The Ohio State Murders は、著名な作家となって母校を訪れるSuzanneによる回想が中心となる劇である。回想における彼女は、希望どおりの専攻を選ぶことができないまま、大学をやめざるを得ない。学生というアイデンティティを失うのだ。Kennedyの戯曲は、確固とした自己を持つことの困難を描き続けていると言えよう。

ところが、これほどまでにアイデンティティの不確かさを描く一方で、Kennedyは家族におけるアイデンティティのみ揺らがないものであるかのように描き出す。前述のFunnyhouse of a Negro とThe Owl Answersは、どちらも、娘であることの苦悩が劇の出発点である。The Owl Answers のClaraは、誰の娘であるか曖昧であり、その意味では確かなアイデンティティはないものの、望まれない娘であることは間違いない。両作品の主人公は、娘としてのアイデンティティに苦しみつつ、そこから逃れられないのだ。さらに劇作家を主人公とした作品群においては、母としてのアイデンティティが大きな意味を持つ。

このような重要性をふまえ、本発表は、Kennedyの劇における家族について、主人公である作家が娘として、または母としていかに家族を描くかに着目して考えることとする。中心的に論じる作品は、1976年に初演されたA Movie Star Has to Star in Black and White と、‘the Alexander Plays’の一編で1996年初演のSleep Deprivation Chamber である。前者は、幼い子どもを抱えての離婚を考えつつ両親との関係にも悩む新進劇作家Claraを主人公とし、娘と母双方の立場が示される、初期作品と‘the Alexander Plays’をつなぐ作品といえよう。後者は、息子の不当逮捕をめぐる母Suzanneの苦闘を描く劇であり、Robert Vorlickyは、家族劇の伝統の核心に近づいた作品と評している。また、どちらの作品に関しても、作家が書くという行為そのものを観客は意識せざるを得ない。これらの作品を分析することで、Kennedyの重要なモティーフである家族と書くことについて、あらたな見方を提示したい。


堀 真理子 青山学院大学


「原作はその死後の生のなかで変化してゆく・・・・・・生きたものが死後の生の なかで変容し更新してゆくのでなければ、死後の生という呼び名は意味をな さなくなる」(ベンヤミン「翻訳者の課題」より)

古今東西、じつに多くの古典ギリシア悲劇が翻訳され、翻案され、脚色されてきたが、近年アメリカ、イギリス、アイルランドの演劇界において増産傾向にある。さらに今世紀に入ってから、Marianne McDonald, The Living Art of Greek Tragedy (2003), Kevin J. Wetmore, Jr., .The Athenian Sun in an African Sky: Modern African Adaptations of Classical Greek Tragedy (2002), Kevin J. Wetmore, Jr., Black Dionysus: Greek Tragedy and African American Theatre (2003), Simon Goldhill, How to Stage Greek Tragedy Today (2007)など、ギリシア悲劇を専門とする研究者らによる、翻案舞台の多義性や翻案の在りかたを論じる研究書が続々と出版されている。McDonald、そしてWetmoreが言うように、「過去の題材を用いて現在の問題について語る」のはギリシア悲劇作者がやっていたことであり、今日の劇作家もそれに倣っていると言える。つまり古典の翻訳や翻案は演劇の伝統として根づいている行為なのである。

しかし、古典とはおよそ無縁の世界に生きているはずの多くの今日の劇作家がなぜギリシア悲劇に魅せられるのだろうか。これらの翻訳・翻案作品では、アリストテレスが定義したような「社会的生物」として、社会とつねに深く関わりながら生きている人間の姿が描かれる。そもそもギリシア市民と奴隷・異邦人、国家と個人、親と子ども、男性と女性、人間と神々といった対立から生まれる古典悲劇は、個々人の内面心理に光を当てるというよりは、戦争や犯罪、人種差別や貧困、精神障害や家庭崩壊といった現代社会にもはびこっているさまざまな暴力を照らし出している。

アメリカにおいてギリシア悲劇を現代的に読み替え、脱構築する作業を積極的に行なった劇作家と言えばCharles L. Meeの名前を挙げることができる。Meeは「われわれは歴史と文化の産物」であると言い、その独特の反リアリスティックな描写で現代の「歴史劇」を書いた。彼は、神が絶対的なものであり、確固たる社会倫理があった時代の産物である古典の舞台を、時空を越えてアメリカの現代消費社会に置き換えることによって、古典に確立された価値観を転覆し、今の時代に絶対的なものや倫理とは何なのかを問いかけている。

世界にはさまざまな暴力、争いごとがある。実際の戦争はもちろんのこと、家族・夫婦間の衝突、非行少年同士の争いごと、企業間戦争、民族闘争、階級間闘争など・・・・・・それらを個々の芝居をとおしてどう伝えていくかはそれぞれの劇作家の倫理観に委ねられている。アメリカのような文化的、社会的、政治的背景の異なる人びとがぶつかり合う社会にあっては、古典が導き出す普遍的な問題が文化的特殊性をもったかたちで描かれることも多い。日本人とアメリカ人との軋轢をテーマにしたVelina Hasu HoustonのThe House of Chaos、チカーナ・レズビアンのアイデンティティを模索する MoragaのThe Hungry Women: A Mexican Medea、経済的にも性的にも搾取される黒人女性を描いたSuzan-Lori ParksのIn the Blood はいずれもエウリピデスの『メーデイア』を翻案していながら、文化的背景の異なるそれぞれの作家の違いが作品によく表れている。しかし、いずれの作品も、古典の時空を離れることによって、古典が照らし出す父権制を転覆し、有色人女性の目から古典に潜む、女性=「人間」の尊厳をすくいあげている。

本発表では、とくに近年アメリカで上演されたギリシア悲劇の翻訳・翻案作品をとおして、その今日的な変容の有様と更新する意義について考えてみたい。


渡久山幸功 沖縄キリスト教学院大学(非常勤)


Bob Dylan, John Lennon, Bruce Springsteen, Patti Smith, Joni Mitchellなどと並んでロック詩人の一人としてPaul Simon (1941- ) は40年以上のキャリアを築き上げてきた。しかし、彼の作品に関する学術的研究は進んでいるとは言えない状況である。昨年サイモンのキャリアの集大成として、Simon & Garfunkelのデビュー・アルバムWednesday Morning, 3 A.M. (1964) から彼のソロ最新作 Surprise (2006) までのオリジナル全作品のほとんどを収めた詩集Paul Simon Lyrics 1964-2008 (2008) が出版された。この詩集にはノーベル賞詩人Derek Walcott (1930- ) と共同制作したブロードウェイ・ミュージカル The Capeman (1998) も収録されている。この詩集を一瞥すると、サイモンが単なるポップ・ミュージシャンではなく、深遠な文学的表現の使用を実践し、かつ60年代以降のアメリカ社会の時代精神を反映したメッセージを表現してきた現代アメリカ「詩人」であることが判る。本発表では、サイモンの「歌詞」を「音楽に乗る詩」として取り上げ、初期の作品を中心に「愛」と「死」のテーマ、特に、後者のテーマと深く関連する「自殺」を主題にした詩を中心に論じたい。

英詞のポピュラー・ソングにおいて、自殺をテーマにした楽曲は幾つかあるが、サイモンも自殺に関する曲を数曲書いている。サイモンとガーファンクルのセカンド・アルバムSounds of Silence (1966) には、誰もが羨む人生の成功者の突然の自殺を扱った19世紀のアメリカ詩人E. A. Robinson (1869-1935) の詩 を彼なりの解釈で改変した “Richard Cory” と孤独な若者の自殺を報じた新聞記事に触発された “A Most Peculiar Man” の2曲が含まれている。 また、組曲アルバムとしてロック史上最高傑作の一つとして評価の高いBookends (1968) で は、カウンター・カルチャー世代の苦悩する若者の飛び降り自殺を描いた “Save the Life of My Child” がオープニング・ナンバーを飾っている。さらに、サイモンとガーファンクルの最高傑作アルバム Bridge Over Troubled Water (1970) には、恋人からの手紙がこない孤独のうちに縊死を想像する 偽レゲエ・ソング “Why Don’t You Write Me” が収録されている。

キリスト教を基盤とする社会にとって、自殺は罪と認識されているにもかかわらず、サイモンが描く自殺には罪の認識は希薄である。ソングライターとしてキャリアをスタートして以来、「人間関係」をテーマとしてきたと説明する作者の観点に立てば、自殺の概念は、現代人の究極的な孤独感・疎外感を喚起する有効な文学的特殊表現 (literary device) として機能しているように思われる。自殺行為に対するサイモンの共感的な視線を反映したこの比喩表現は、後には、自殺希望者に対する究極の愛情表現を内包するメタファーとして使用されるようになり、自殺を肯定する難解なメッセージを発信しているかのような「危うさ」が歌われている。


吉岡 由佳 神戸大学(院)


19世紀半ばの移民の始まりから、20世紀を経て21世紀初頭の今日までアジア系のディアスポラは拡大し、アジアのさまざまな出自を持つ人々が、それぞれの文化や伝統を維持したまま異文化の中で生活することになった。それによって、異文化間の葛藤や融合による新たな文化の形成が起こった。特に、1960年代から70年代のアメリカでは、パフォーマンス・アートが他の芸術とも融合しつつ発展した。その中で、アジア系アメリカ人のアーティストは、パフォーマンス的手法を通して、表現方法としての声を獲得する。事実、近年の欧米の学界においては、声を発することへの関心の高まりに伴って、「言語詩人」(language poets)の作品のような視覚的効果に重点を置いた取り組みが盛んになった。

たとえば、中国系アメリカ人詩人Pwu Jean Leeの作品の一つに“A Guitar”と題した、視覚的効果と言語、そして音楽性を融合した詩がある。「彼女のギターには弦がない」(“Her / guitar / has / no / string.”)で始まるこの作品は、詩全体がギターの形になるように配置され、無音の音楽性が表現されるが、作品中の「沈黙の楽譜」(“silent note”)こそ、弦のないギターが生み出す音に他ならない。それはフィリピン生まれのアメリカ詩人Jose Garcia Villaの“Parenthetical Sonnet”(そして、有名な前衛芸術家John Cageの4’3’’)とも類似した空間的パフォーマンス・アートとも言える。加えて、韻律においては、前半部に‘s’音の頭韻が効果的に配置され、力強さと歯切れの良さを付加している。また、視覚的表現においては、冬、春、そして秋という季節の変化の中で、雪の白、ルビーの赤、芍薬の白といった鮮やかな色の対比が美しく、そうした表現がディアスポラ体験を投影している。

本発表では、アジア系アメリカ人詩人たちが文字を通して発する声の多様性に着目し、Pwu Jean LeeやJose Garcia Villaや中国系カナダ人詩人Frederick James Wahなどのアジア系アメリカ人(アジア系カナダ人も含む)の詩人による視覚詩、特にディアスポラ体験を通して描かれた視覚詩を取り上げる。さらに、そうしたアジア系のディアスポラ詩人たちの視覚詩を比較分析することによって、アイデンティティと文化的多様性の相関性、すなわち、いかに彼らが複数の言語・伝統・文化を維持しながら、エスニック・アイデンティティを模索したのか、Mikhail Bakhtinのcarnivalesqueの理論を参照しながら、考察していきたい。