1. 第9室(般1-405教室)

第9室(般1-405教室)

開始時刻
1. 午後2時00分 2. 午後2時55分
3. 午後3時50分 4. 午後4時45分(終了5時30分)
司会 内容
平野 順雄

1.“The scallop-edged waves in the twilight”――“Crossing Brooklyn Ferry” に見る印象主義の絵画的手法

  森山 敬子 : 学習院大学(院)

2.Hart Crane、Passagesをうたう詩人

  来馬 哲平 : 早稲田大学(院)

鵜野ひろ子

3.政治と経済とEmily Dickinson

  江田 孝臣 : 早稲田大学

4.エミリー・ディキンソンの英語の語法

  大西 直樹 : 国際基督教大学



森山 敬子 学習院大学(院)


“Crossing Brooklyn Ferry”(以下、“Crossing”)は、Walt Whitmanの作品の中では、最も絵画的なイメージを与える作品である。フェリーに乗っている詩人の視野は、イースト河の流れと町全体をどこか高い所から眺めるように俯瞰する。フェリーの進む彼方に、太陽が今しも沈もうとする夕暮れ時 (“sun half an hour high”)、透明な光線が川や岸辺の景色を照らす(“the shimmering track of beams”, “the haze on the hills”)。どのフレーミングを取っても、そこには一つの主題が浮かび上がり、光と色が溢れている。この光を強調した明るいイメージは、印象派の絵画のような雰囲気を漂わせている。そこで本発表では、“Crossing” の絵画的手法に注目し、その影響と効果を考察する。

“Crossing” の絵画性については、ルミニズム(19世紀の米国の絵画様式で、自然の光がもたらす効果を正確かつ写真的に描写)の画家達が描くボストンハーバーの風景画との共通点、さらにはEmersonの宇宙観が描出されていることを指摘するBarbara Novakの見解に対し、M. Wynn Thomasは、ルミニズムの光と静寂な画面には、人間の姿や動的な気配が感じられず、Whitmanが示す人間のエネルギーの輝きがまったく現れていないと反論している (Thomas 95)。

確かに、ルミニズムのFitz Hugh LaneやRobert Salmonが描く夕陽に輝く帆船は、その静寂さと瞑想的な雰囲気が、詩人の内面と照応する部分はあるのだが、Whitmanの詩にある流動性や人間の力強い活力に欠ける。 例えば、“Crossing” のセクション3の27行目から48行目までの自然描写は、動的であり、光が揺らめくかと思えば、影を落とし、夕陽の光線の透明な輝きを、微妙な色調で捉えている―「12月のカモメを照らす黄色の光と影」、「夏空の水に落とす影」、「スクーナー船の光る航跡」、「帆立貝のような波頭」、「スミレ色の霞」―そして工場の煙突から「高く燃え上がる赤と黄色の火炎の光」は、力強さを強調する。これらの詩行は、詩人が眼で見た印象を言語に写し取ったもので、その光を正確に写実的に捉えている。落日の光線が、空と水と、その間にある高いマストや建物の上に落ちる。このような光の変化によって外界を色彩的に表現する手法は、J. M.W. Turner(印象派の先駆者)やAlfred Sisleyなどの印象派の絵画を髣髴させる。光を言葉に翻訳し、人間と物との調和を歌った “Crossing” は、ルミニズム的な描写を超えて、印象主義の先駆けになっている作品と言える。

光に包まれた詩人の意識は、いつしか、小さな肉体を超えて、他者に連なり、風景に連なり、全宇宙に連なっていく。 “It avails not, time nor place−distance avails not, / I am with you.” これは、Whitmanからのメッセージである。「あなたたち」とは、乗客であり、“you who peruse me” の読者である。私たち読者もまた、“Crossing” に一種の永遠的なものを感じるであろう。それは一枚の絵が与える、一種の永遠的なものと同質なのである。


来馬 哲平 早稲田大学(院)


A Metapoetics of the Passage (1981) においてMary Ann Cawsは、Bretonを筆頭とするシュールレアリスト達の詩に見られる「橋」、「回廊」、「扉」といった「境界」の隠喩が担う役割について論じる際、それらを「相反するものの一致」という馴染みの主題の言語的表れへと還元させていくことで、テクストの内容・形式の相互浸透を見ていく新批評的な方法を継承しながらも、批評の目をそこから更に拡げ且つ深化させていった。Cawsは、歴史から隔絶され自足した静的な対象としてテクストを捉えるのではなく、生きている読者が、読むという行為によってテクスト内を通過することで、テクストと読者が互いに絶えず変容していくための、流動性を帯びた通過 (passage) の場として捉える。従って、最早「境界」の隠喩は、テクストの枠内においてのみ機能する抽象的な言葉の綾に留まらない。それら各々の隠喩は、テクストの内と外を融通させる有機的な「敷居」としてのテクスト性を補強するための、具体性を帯びた入口であり且つ出口である。又、それらの隠喩は、テクストを通過する読者の内部に生起する恣意的・創造的な意味構築の過程や、その作業に伴って連想的に想起される他作品との融通といったインターテクスチュアルな架橋行為とも融通し合う。

「境界」のダイナミズムを滋養にして、異質な諸概念間の架橋行為に精を出す詩人像は、20世紀初頭のフランス詩人達のみに当てはまるわけでは無論ない。たとえば17世紀イギリスの 「形而上派詩人」と称される詩人たちがいる。そして、DonneやShakespeareといった稀代の言語職人達の技法に(T. S. Eliotの著作を介して)私淑し、その言語的架橋技術の粋を、モダンテクノロジーの象徴であるブルックリン橋に隠喩化してみせたアメリカの詩人Hart Craneがいる。The Bridge (1930)という、そのものずばりの題を持つ長篇詩の作者であるCraneも又、テクストの内と外を意識的に「架橋」しようとした詩人である。

一つの独立したテクストが、雑多なテクストの集積体である一個人に読まれ、通過されるたび、新たに構築しなおされ、同時に当の読者の感受性や認識もまた、微細に或いは大きく書き換えられていくという、テクストと読者の相互変容を意識して書かれた詩、あるいはその変容過程がドラマタイズされたものとして読めるタイプの詩がある。Cawsは、そのような詩を、平面的な設計図 (image)を立体的な建造物 (construction)として現実に顕現させる技術であるarchitectureになぞらえて、architextureと呼ぶ。そしてCawsも指摘するように、詩人と読者の、又、詩人とテクスト化された自己との相互関係(融通・齟齬)を再演したものとして読めるメタ詩的な、Cawsに倣えば、architexturalな作品を、Craneは少なからず残している。

詩的技法の点からも、「橋」の詩人なる呼称に相応しく、Craneの詩は様々な言語的架橋術の見本市として読める。彼は、異質なものが無碍に混交する「境界」を詩の主題的空間として設定することで、アナロジーの鎖を用いて主題を重層的に変奏させていく技法や、規範文法からの逸脱をも敢えて辞さない曖昧で多義的な言語操作を駆使し、テクストを構成する諸要素の隅々にまで、境域界の性質を帯びさせていく。本発表ではpassageの詩人としてのCrane像を照らし出すために、比較的短く且つメタ詩的な構造を持つ“Passage”、“Repose of Rivers”、 “At Melville’s Tomb” 等に考察の対象を絞り、Cawsの方法論を手掛かりに、Craneを「通過」してみたい。


江田 孝臣 早稲田大学


Vivian R. Pollak編の論文集A Historical Guide to Emily Dickinson (New York: Oxford UP, 2004)に収録された"Dickinson and the Art of Politics"においてBetsy Erkkilaは、Dickinsonが、民主主義の進展に抗して、古いエリート主義的なフェデラリストの精神と感性を持ち続けたと論じている――"Dickinson was a witty and articulate spokesperson for an essentially conservative tradition, a late Federalist state of mind and sensibility, which passed out of favor with the democratic "Revolution" of 1880, when Jefferson was elected president..."。また詩の出版を拒んだことについては――"her refusal to publish was not so much a private act, as it was an act of social and class resistance to the commercial, democratic, and increasingly amalgamated and mass values of the national marketplace."と述べている。このような歴史主義的アプローチはDickinson作品の読みを大きく変える可能性を秘めている。例えば、アンソロジー・ピ−スである"Much Madness is divinest Sense -"で始まるFr620/J435は、狂気を定義する詩でもあるが、多数決という民主主義の根本原理を批判した詩でもある。また同じくよく知られた"I’m Nobody! Who are you? "で始まるFr260/J288は、"His Mansion in the Pool"で始まるFr1355/J1379と合わせて読めば、当時の合衆国の政治シーンの辛辣な戯画とも解釈しうる。この発表では、他にFr788/J709, Fr256/J285, Fr536/J406, Fr530/J567, Fr481/J713等を読み直し、かつErkkilaのWhitman研究書Whitman: The Political Poet (New York: Oxford UP, 1989) と、文化人類学における贈与の理論を援用しながら、民主主義と資本主義経済に対してDickinsonが感じた違和感の由来を探りたい。


大西 直樹 国際基督教大学


読者にとってエミリー・ディキンソン(Emily Dickinson)の詩が難解で、そのために謎めきながらも独特の魅力となっている理由の一つは、彼女の風変わりな英語そのものにある。This was a Poet--- It is That/ Distills amazing sense/ From ordinary Meanings--- とシェイクスピアについて語った彼女であるが、文法的にみて破格と思われる表現が彼女の英語には珍しくない。ピリオッドで文を閉じることはまれで、代わりにダッシュを多用している。ドイツ語のように名詞を大文字で始める。さらには省略や倒置が通常の域を逸脱している例が珍しくない。

しかし、それらは彼女の語法の癖とか訓練不足といった否定的な意味で欠陥ではなく、そう書かなければ、あの独特な表現が生まれてこない計算された意図が働いている例がいくつも見られる。一般的、通常的であることを忌み嫌った彼女は、詩的表現においても普通の語法をそのまま使うことを意図的に避けている。それがうけいれられず、自分が除外され無視されていく危険があってもあえて、自分の語法に固執している。その理由は、一見普通でない英語の表現には、ある特別の効果を狙った戦略が背後にあると考えられるからだ。たとえば、名詞が動詞のはたらきをしたり、形容詞がくるべきところに名詞がつかわれたりする。そのことで、文法上規則正しい用法によってはなしえない独特の効果が計算されている。さらに、韻律が無視されることはむしろ当たり前であるが、一般的な韻律のもつ固定的なわざとらしさとは違った、さらに効果的な精緻な効果が組み込まれている。その音の効果が同時に、ある動作を見事に再現しているのである。

例えば、And neigh like Boanergesがあげられよう。なぜBoanergesなのかは聖書の当該箇所からその意味あいが浮かびあがるが、それ以上に音の効果が計算されている。他にも、いかに動詞がある動作を取り込み再現しているか、そのenactmentの例をあげれば、The Winds begun to knead the Grass---/ as Women do a Dough ---とか、Firmament---row---/Diadems---drop---/And Doges ---surrender---/ Soundless as Dots, On a Disc of Snow など、興味深い例がいくつも挙げられる。

通常、彼女の謎めいた詩の理解には、19世紀中頃の宗教色の強い文化的背景や彼女の置かれた複雑な人間関係の情報が不可欠だが、今回はそれらを一端横に置いて、彼女の英語の特異性とその言葉の生み出す彼女ならではの詩的効果に集中して、いくつかの詩を読んでみたい。