1. 第8室(般1-303教室)

第8室(般1-303教室)

開始時刻
1. 午後2時00分 2. 午後2時55分
3. 午後3時50分 4. 午後4時45分(終了5時30分)
司会 内容
本城 誠二

1.Robert CooverのThe Public Burning における戯画的想像力

  山口 和彦 : 東京学芸大学

2.Tim O’Brienの小説における男らしさの修正

  早坂  静 : 一橋大学

下條 恵子

3.享楽の図書館Libra――Don DeLillo作品へのメディア論的アプローチ

  矢倉 喬士 : 大阪大学(院)

4.「丘の上の町」の神話と1980年代のフィクション

  児玉 晃二 : 学習院大学



山口 和彦 東京学芸大学


第37代アメリカ大統領Richard Nixonは、歴代大統領の中で最も風刺漫画家たちによって描かれた大統領のひとりであった。例えば、Washington Post のHerblock(Herbert Block)は、目的のためには手段を選ばぬ非道の人間としてのNixon像を、アメリカ人の想像力の中に根付かせていった。多分にマスメディアによって創出された戯画的なNixon像の成り立ちを、Herblockらの政治風刺漫画に辿るのが本発表の出発点である。

現代アメリカ小説を例に取っても、Kurt VonnegutのJailbird (1979)やPhilip RothのOur Gang (1971)などにおいて、Nixonはパロディの対象として描かれている。しかし、Robert Cooverの代表作The Public Burning (1977; 以下PB)ほど、Nixonの戯画性や世界の戯画性を基盤に展開している小説はないだろう。PB のNixonは、メディアによって創出される自己の戯画性を極度に意識しているからこそ、政治的な自己演出を効果的に利用しようとする人物である。そもそも、PBの物語世界はそれ自体戯画的であり、コミック的登場人物が跋扈する世界であるが、単純で深みに欠けるがゆえに大衆の心理に訴えかける自己の戯画性を権力に転用してしまうNixonのキャラクターには、政治風刺漫画のような政治批判のためのメディアが、権力との共犯関係を意図せず切り結んでしまうという逆説が見事に映し出されている。

そこには、メディアによって創られる「現実」を通してでしか自己や世界を認識できない冷戦期のアメリカ人のあり方が重ね合わせられてもいる。もはや媒体のないnatural landscapeを経験できないメディア支配の時代において、 mediascapeのなかで「リアルなもの」を把握し損ね続けるNixonには、この時代のアメリカ人一般の知覚様式が見出されるし、また、読者はその点に共感を覚えるのである。物語の大団円で、Rosenberg夫妻の処刑が行われるTimes Squareに盲目的に集まる大衆がメディアによって操作された存在であるのに対し、Nixonが状況を半ば批判的にみるアウトサイダー(=読者の代理)であることはその証左である。

言ってみれば、PB におけるNixonは自由主義的民主主義と共産主義的全体主義の二項対立に基づく冷戦言説を内面化した人物として描かれる対象であると同時に、冷戦期のアメリカニズムを問題化する主体でもある。しかしながら、戯画的な想像力を専有するかのように「歴史」に対する自己の超越的立場を獲得しようとするNixonは、物語の最期で「歴史」の外側への脱出に失敗し、再び戯画的な揶揄や嘲笑の対象に成り下がる。本発表では、Nixonのキャラクターをめぐり、そのような一回ひねりの冷戦期アメリカニズム批判を生み出すPB の戯画的想像力について検討を加えたい。


早坂  静 一橋大学


Tim O’Brienは自身のヴェトナム戦争の体験に基づいて、If I Die in a Combat Zone, Box Me Up and Ship Me Home (1973)、Going After Cacciato (1978)、The Things They Carried (1990)というヴェトナムの戦場を舞台とした3編を執筆している。これらのうち1作目は回顧録、2作目は長編小説、3作目は短編小説集であり、それぞれジャンルは異なるが、1作目において発表されたO’Brien自身の戦争体験が2作目、3作目においてその語りの内容と形式に修正が加えられながら繰り返し物語られている。さらに、この3編の他にヴェトナムではなくアメリカ合州国を舞台とする5編の長編小説が出版されており、その全てにヴェトナム戦争の帰還兵が描かれている。厳密には自伝ではないCacciato やThe Things They Carried と同様にこれら5編の長編小説においても、そのヴェトナム戦争の経験や性格の類似性のために、語り手もしくは主人公を作者の虚構上の分身として、読者は意識せずにはいられない。

ヴェトナム戦争において経験した自身の精神かつ身体的危機の記憶の物語を繰り返し問い直し続けるO’Brienの自伝的テクストの根幹には自己の断片化や戦争の物語の意味の決定不能性が見て取れる。O’Brienは8編の著作を通して終始冷戦下のアメリカの軍事化を基盤とする社会に帰属しているのを認めつつも、この帰属感に対して強い問題意識を持っており、社会的規範と自己、個人との間のずれを意識している。アメリカの男性、成員として兵士となり国に貢献すべきという義務感と、戦争という暴力に加担する(した)ことへの自己嫌悪との間で、社会的規範に対する愛憎半ばする思いにO’Brienは引き裂かれているのである。そして、この社会的規範へのアンビヴァレンスが多様な解釈を許すテクストを形成している。ヴェトナム戦争以降、アメリカでは公民権運動、女性解放運動、同性愛者解放運動などの影響も相俟って、冷戦下の軍事化を基盤とする社会を支えてきた献身的、克己的、そして英雄的な男らしさのジェンダー規範が揺らいでいる。本発表においては、O’Brienの作品におけるジェンダー表象を分析し、彼がどのように冷戦下の規範的な男性性とそれへのアンビヴァレンスを表現し、そうした意味が宙吊りにされたテクストを書くことによって規範的男性性を脱構築しているのかを、アメリカ人男性の自己像をめぐる幾つかのテクストとの通時的および共時的比較を通して考察をする。


矢倉 喬士 大阪大学(院)


Don DeLilloのLibra は1988年に出版され、この20年の間に同作品に関する論文は数多く出されてきた。ポストモダン小説の代表的作品として名高いLibra だけに、Frank Lentricchiaの”Libra as Postmodern Critique”のようにポストモダン的な言説を基にした分析が数多く行われてきた。しかし、文字や映像といったメディアがもたらすリアリティの差異を巧みに書き分けるDeLilloという作家に値する十分なメディア論を含んだ論文はまだ出てはいないように思われる。

例えば、David Cowartはwordとvideoという二つのメディアを分析し、DeLilloがvideo、すなわち映像メディアを描くときによく用いる語を詳細に抽出し、そこにword(文字メディア)とは別種のリアリティが書き込まれていることを示してみせた。しかし彼は文字メディアと映像メディアをはっきりと区別してしまったがために、Libra において読み取られるべき映像メディアの文字メディアへの侵入というテーマを逸してしまったように思える。

具体的に見てみよう。22 Novemberという章にはメディアによる通信の描写が見られるが、そこでDeLilloは文字ともデザインともつかぬ文字群を配列している。コンマもピリオドもない。全てが大文字のアルファベットで構成され、不自然な改行と空白のスペースが設けられている。何やら言い間違えと思しき響きや意図的にスペルミスを織り交ぜた語も書き込まれている。”SSSSSSSSSS”というSの連続などは、文章として意味を成しているとは到底思えない。文字を読むことでストーリーを理解する小説において、読めない文字を配列するのはなぜか。意図的な誤植とも思われる表現を用いることの効果とは。ここでは文字メディアは文字メディアとしての役割を期待されているのだろうか。これらの問いに正面から向き合った論考は未だ為されていない。

本発表ではこの問題に対し、Friedrich A. Kittlerの独創的なメディア論、Grammophon, Film, Typewriter (1985)を理論的枠組みとして援用し、Libra において重要なファクターであるポリグラフ、フィルム、タイプライターの3つのメディアを考察していく。Kittlerがラカン派精神分析のタームを用いて細かく分類したメディア論を引くことで、MaoU(1991)やUnderworld (1997)など他のDeLillo文学にも通じる「読めない文字」、あるいは「象形文字としてのアルファベット」というテーマにメディアの差異の観点からのアプローチが可能となる。

そしてこの問題はDeLilloという作家の作品にとどまるものではない。グラモフォン、(Libra においてはポリグラフ)、フィルム、タイプライターその他様々なメディアのもたらした想像力は、小説という文字メディアの帝国とどのような関係を結ぶのかという一般化された問いへの答えを用意することにもなるだろう。


児玉 晃二 学習院大学


合衆国第40代大統領Ronald Reaganは、在任中の演説でJohn Winthropの説教をしばしば引用したが、中でも有名なのが「光り輝く丘の上の町」(shining city upon a hill)という表現を用いて、自らが成し遂げた“強いアメリカ”の復権を謳い、その輝かしい未来を祝福した退任演説(“Farewell Address to the Nation”)であろう。「丘の上の町」(a City on a Hill)は、アメリカ上陸を目前にしたWinthropの演説(“A Model of Christian Charity”)に登場し、「アメリカ=神の祝福に満たされた世界の模範となる町」という極めて自己肯定的な神話的な言説を形成してきた。Reaganの演説はその言説に沿ったもので、彼の自身に満ち溢れた態度とシンプルで楽天的な気質、延いては彼の治世の空気を何よりも雄弁に物語って多くの人々の記憶に刻まれることとなった。

さて、本発表では、1980年代のReagan政権期を扱った二人の作家の二つの作品―Don DeLilloのWhite Noise (1985)、Kurt VonnegutのHocus Pocus (1990)―を、この「丘の上の町」言説に着目して分析し、Reagan時代の文化的コンテクストとポストモダン的特徴について考察していく。DeLilloとVonnegutは、同じくポストモダン作家としてカテゴライズされるとはいえ、属する世代も作風も関心も政治的な姿勢も異なり、またWhite Noise とHocus Pocus では発表時期が5年ほど離れている。だが、興味深いことに、Reagan時代と関連性をもつ両作品は共に「丘の上の町」ならぬ「丘の上の大学」(それぞれCollege-on-the-hillとTarkington College)を舞台としており、奇妙な符合を見せている点は注目に値する。なぜ「町」ではなく「大学」なのか。その違いは何か。また、そこはどのような場所なのか。これまであまり注目されてこなかった両作品の舞台「丘の上の大学」それ自体に焦点をあて、そこに様々な形で織り込まれた時代的、文化的なコードを分析することで、Reaganが説いた「光り輝く丘の上の町」の影の部分が逆照射されるだけでなく、二人の現代作家が様々な差異を超えて共有し、それぞれの作品に取り入れたReagan時代のポストモダニズム的特徴とはどのようなものなのかも考察可能になると考える。批評家Joseph Deweyは、Reagan政権のポストモダン性を分析する中で、人々が政権を受容したメカニズムと、ディズニーワールド等のテーマパークを支える論理との類似性を指摘しているが、この示唆に富んだ議論を足がかりに、両作の読解を試みたい。