1. 第7室(般1-305教室)

第7室(般1-305教室)

開始時刻
1. 午後2時00分 2. 午後2時55分
3. 午後3時50分 4. 午後4時45分(終了5時30分)
司会 内容
Trane DeVore

1.Coming out of the Closet: Contemplating Homosexuality in William S. Burroughs’ Novels and Letters

  水島新太郎 : 同志社大学(院)

中田 晶子

2.「目覚め」のあとの「まどろみ」――Vladimir NabokovのMary の結末をめぐって

  後藤  篤 : 大阪大学(院)

小畑 拓也

3.SFとフランケンシュタイン・コンプレックス

  高階  悟 : 秋田県立大学

4.Los Angels Time(s)――現代L.A.文学と分身の時間

  藤井  光 : 同志社大学



水島新太郎 同志社大学(院)


In its September 2008 issue, Japanese Playboy magazine featured a collection of famous American poets in an article entitled “Poetry Strips the World Naked.” Among those included were the Beats, not yet has-beens that still cross our minds when we look back on the 1950s, sampled and recirculated into today’s high and pop culture. At first glance the sexual connotations suggested by their inclusion in Playboy might seem forced, even out of place, but in recent consideration of Beat literature in relation to gender studies, the connection is quite prescient. In my research thus far I have explored representations of masculinity and male homosocial bonding in Jack Kerouac's prose, leading in turn to a greater interest in the homosexual elements and influences in Beat literature, which are not inconsiderate. There were a number of homosexual/queer writers and poets in the Beat community, a great cultural crossroad for literary as well as sexual experimentation among heterosexual, bisexual and homosexual men seeking through spontaneous, improvised self-expression to rebel against postwar social conformity.

In this paper I will examine representations of homosexuality in the novels, letters, journals, and documentary films of the Beats, moving on from my earlier focus on Kerouac to examine in particular William S. Burroughs. (The paper is partly based on my presentation on Allen Ginsberg and William Burroughs to the 30th Annual Meeting of the Southwest Texas Popular Culture and American Culture Association held in New Mexico, 2009.) With respect to Burroughs’ portrayals of the homophile, homoeroticism, and misogyny, I will review his manner of exhibiting gayness, as well as his conflicting feelings about his struggles as a gay writer, which tended to be isolating in the then tightly closeted homosexual community. Alongside these viewpoints, I argue that by exhibiting various sides of his gayness or maleness, Burroughs broke down the conventional notion of Cold War masculinity (more specifically, the meaning of being a man). My presentation will also explore the centrality of homosexuality in Beat culture, which seeks, in contravention to the human habit of over-emphasizing common sense and manner, to present a direct vision of the hidden truth of unpleasantness (including social deviance). Burroughs and Allen Ginsberg let readers see savageness, vulgarity, and social taboo, such as Burroughs’ confrontational “talking asshole routine” in Naked Lunch (1959), or in his misogynistic depiction of women as giant insects from another galaxy. His works throw doubt on why we should draw a line between homosexual and heterosexual; what is the difference between heterosexual and homosexual desire?

In my study, I will not only reconsider literary texts of Burroughs but also highlight his understanding of gay male identity and experiences. This may help us to see how his works were accepted politically by gays and feminists, a perspective that helps this study along an alternative path of analyzing American Literature, one that counteracts the conventional stress on text over context -- a stress that persists particularly in Japanese studies of American Literature. My examination of the Beats proves them to be important precursors enabling my own exploration of literature grounded in gender and cultural studies. I will also include visual and aural evidence of the homoerotic dimensions of Beat culture presented through a multimedia exhibit of photographs and paintings (works once exhibited in Whitney Museum of American Art, and now housed in Lisa Phillips’ collections of Beat Culture and the New America, 1950-1965 (1996), as well as voice recordings of Burroughs.


後藤  篤 大阪大学(院)


その生涯において作品の執筆に用いる言語を母国語であるロシア語から英語へと切り替えたVladimir Nabokovは、代表作Lolita (1955)の反響から英語圏の読者にかつてのロシア語作品の存在を示す必要性を感じ、Invitation to a Beheading (1959)を皮切りに過去の作品を自ら英語へと翻訳し始める。本発表で扱うMary も、1926年にMashen’ka の題で作家の処女長篇小説として世に出た後に、1970年にその英語版が発表された作品である。Nabokov作品の中でも比較的シンプルに構成されたこの小説では、主人公Ganinの祖国ロシアでの初恋の思い出と、1920年代のベルリンの下宿に住む彼を含めた7人の亡命ロシア人たちの日常とが対照的に描かれる。一週間の物語時間の中で、初恋の女性Maryとの再会を前にしたGaninは、彼女との豊かな思い出に浸っていくが、小説の最後、初恋の相手が記憶の中の存在でしかないことを悟り、彼は現実のMaryと会わずにベルリンを去っていく。

先行研究では、結末近くのこのGaninの「覚醒」とそこで描かれる早朝の建築現場が持つ意味についての解釈に議論の重点が置かれており、この小説が持つ処女長篇としての意義を評価するといったものが多数を占めている。しかしながら、Jane Graysonが指摘するNabokov作品の英語版が持つアナクロニズム、すなわち原作と翻訳の発表順序の不一致を踏まえたとき、MaryをAda (1969)に続く作品として解釈する可能性が浮上する。ここで目を向けるべきは、Ganinの「覚醒」の直後、小説の結末で描かれる彼の「眠り」である。先行研究において十分に議論されていないこの結末場面を起点とすることによって、Ganinの「過去」から「現在」への帰還、そして「未来」への出発の物語というMary 解釈のクリシェを書き換えることができるはずだ。

本発表では、小説の結末を解釈する上での手がかりとして、物語が持つ時間の主題とそれに関する英語・ロシア語テクスト間の差異に注目する。限りなく原文に近づけられたMary の英語版には、他のいくつかの作品の翻訳に見られるような加筆や修正は見当たらないものの、英語版の序文におけるNabokovの言葉にあるような「ロシアの日常的な事柄」に関する変更を認めることができる。その中でも、序文において例として挙げられているユリウス暦からグレゴリウス暦への変更に注目したとき、小説が持つ時間の主題に新たな光を投げかけることができるだろう。それはまた、物語における数字の主題と関わりを持つものでもある。下宿のそれぞれの部屋に貼られたカレンダーの日付、あるいは頻繁に言及される年月日や時刻といった形でテクスト上に散りばめられた数字の意味についての考察を通じて、シンプルな見かけを持つMary に隠された「複雑さ」の解明を目指すとともに、この作品が持つ後期Na

bokov作品との類似性を探っていきたい。


高階  悟 秋田県立大学


フランケンシュタイン・コンプレックスを使ったのはSF作家アイザック・アシモフ(Issac Asimov, 1920-1992)である。この用語はイギリスの女流作家メアリー・シェリー(Mary W. Shelley, 1797-1851)の文学史上最初のSF小説と称される『フランケンシュタイン』(Frankenstein or The Modern Prometheus, 1818)中の野心的な科学者の抱いたコンプレックスに由来している。SF作家アシモフは科学技術の発展した未来社会における人間とロボットの共存する社会のドラマを多数描いているが、その中にはフランケンシュタイン・コンプレックスを抱いてロボットの普及に反対する人々が登場している。彼らは人間が科学技術を駆使して便利なロボットを造りだし、そのロボットによって人間が滅ぼされるという不安や恐怖に取りつかれた人々である。アシモフは『われはロボット』(I,Robot, 1950)で人間の保護を優先させた「ロボット工学三原則」(Three Laws of Robotics)を提唱した。

文学と科学をつなぐ架空の物語サイエンス・フィクション(SF)の世界で、アシモフと同じようにメアリー・シェリーのテーマを引き継いだ作家は、カート・ヴォネガット(Kurt Vonnegut, 1922-2007)である。彼はエッセイの中でメアリー・シェリーを無制限なテクノロジーの発展を恩恵とする考え方に最も効果的に疑惑を表現した女性として紹介している。また晩年のヴォネガットは「全人類は、いまや遅かれ早かれフランケンシュタインの怪物たちに殺されると思って身をすくめている」とエッセイで述べている。彼は科学の進歩と人間の関係のさまざまな課題に取り組み、創作活動を通して科学技術の進歩に警鐘を鳴らし続けた作家の一人である。

科学の進歩がさまざまな分野で著しい今日、マイクル・クライトン(Michal Crichton, 1942-2008)は最先端の科学の進歩が生み出すさまざまな問題を次々に描き続けたベストセラー作家である。マイクル・クライトンは『ジュラッシク・パーク』(Jurassic Park, 1990)ではバイオテクノロジーの恐怖、『プレイ』(Prey,2002)ではナノテクノロジーの恐怖、『ネクスト』(NEXT,2007)では遺伝子テクノロジーの問題を扱い、遺伝子組み換え食品「フランケン食品」(Frankenfood)に言及している。

21世紀の今日、「科学の産物が人間の手を離れて制御不可能となり、人間に害を加える」というフランケンシュタイン・コンプレックスは、SFの世界だけの問題ではなくなっているようである。めざましい科学技術の進歩に伴い、時には科学者の社会的な責任と人間の尊厳(dignity)をいかにして取り戻すかが問題になってきている。


藤井  光 同志社大学


都市に特有の時間性の感覚というものが存在するならば、ロサンゼルスを特徴付ける時間が、“the perpetual present” であることは、D. J. WaldieやDavid Fine、William A. McClung ら、この都市を取り上げる批評家たちの多くに共有されている。過去が常に現在の利害によって作り上げられ、忘却され、従属させられることによって、現在におけるアイデンティティが強化されていくという時間の感覚は、この都市が持つ自己創造の神話を支えるものであり、そのような「L.A.神話」に対しては、これまでも多くの批判的試みがなされてきた。

本発表で注目したいのは、Sesshu FosterやKate Braverman、そしてSteve Ericksonら、ロサンゼルスそのものを探求する現代作家たちのテクストにおいて展開される、時間についての視点である。その創作活動の大半をロサンゼルスの街に関して費やしてきた作家たちは他にも存在するが、この三人の現代作家たちに共通する点は、「現在」の支配を、物語行為における時間性において変形させ、打破しようとする姿勢であり、同時にその試みが「分身」という主題を呼び寄せていることである。

Sesshu FosterのAtomix Aztex (2005)においては、現代のロサンゼルスと、その分身たる仮想世界“Aztex”が、「パラレル・ワールド」として登場している。二つに分裂させられた物語は互いの分身として呼応し、次第にその境界線を失うなかで、ロサンゼルスの「現在」は変容させられていく。

同じく、パラレル・ワールドという手法をしばしば用いる作家、Steve Ericksonは、2005年に発表したOur Ecstatic Days において、西ロサンゼルスの大部分が湖の出現によって水没した21世紀を描いている。時間軸が揺れ動き、交錯するエリクソンの作風は、テクスト上の仕掛けにおいても実践されているが、同時に、親と子をめぐるドラマが複数の登場人物によって変奏され、互いが互いの分身であるような時間を表現している。

Frantic Transmissions to and from Los Angeles (2006)を始めとするKate Bravermanのテクストにおいて、物語行為における時間の問題は、異なるテクスト間における実践となっている。Bravermanのほぼ一貫した主題は、ロサンゼルスの街における女性のアイデンティティの揺らぎであり、それは「現在」における充足から離脱するような時間性の経験として語られる。この主題はさらに、複数の小説において変奏され、そのなかで各登場人物は分身を追加され、そのアイデンティティは固定されることなく変容していく。

これらの物語の実践において、「現在」はもはや特権的な位置を占めるものではなく、Fosterにおいては一種の戦場として、Ericksonにおいては歴史を越えて発動する力学の一断面として、またBravermanにおいては絶えず歴史的な時間軸からの離脱を伴う変化を含むものとしてとらえ直され、それぞれのテクストの特性を構成している。

物語と時間という主題、都市と文学という問題、さらには分身のナラティヴの系譜など、議論すべき点は多岐にわたるものであるが、そうした文脈における研究にも触れつつ、現代ロサンゼルス文学の一端を検証したい。