1. 第5室(般2-302教室)

第5室(般2-302教室)

開始時刻
1. 午後2時00分 2. 午後2時55分
3. 午後3時50分 4. 午後4時45分(終了5時30分)
司会 内容
羽村 貴史

1.アメリカ先住民独立宣言――先住民作家William Apessの抵抗運動

  小澤奈美恵 : 立正大学

2.Anzia Yezierskaの作品にみられる「贈与」・「贈与者」について

  本田安都子 : 愛知県立大学(非常勤)

吉田 美津

3.The Joy Luck Club におけるthe Mother Tongue

  藤井  爽 : 名古屋大学(院)

4.見えないものを奏でる――Tropic of Orange におけるスコポフィリア

  寺澤由紀子 : 明治大学(非常勤)



小澤奈美恵 立正大学


本発表では、19世紀の先住民説教師であり、また著述家でもあるWilliam Apess(1798-1839)がマサチューセッツ州マシュピー居留地で行った、マシュピー族の自治と諸権利を求める非暴力抵抗運動に焦点を当て、1833年にマサチューセッツ州政府に提出したインディアン独立宣言と、その経緯を綴ったIndian Nullification of the Unconstitutional Laws of Massachusetts Relative to the Marshpee Tribe; or The Pretended Riot Explained (1835)を論じる。エイプスは、アメリカ革命のエートスである啓蒙主義や先住民の文明化に用いられたキリスト教という白人主流社会の武器を用いて、白人社会に抵抗を試みている。独立宣言に倣った「インディアン独立宣言」は、ポストコロニアルの批評家、ホミ・バーバの言う「」と見做すこともでき、主流社会を茶化しながら、その価値観と権威のアンビヴァレンスを暴きだし、撹乱していく行為であった。1848年にセネカ・フォールで、女性たちが独立宣言を模して、ジョージV世の替わりに男性を告発した女権拡張宣言に先立つ先住民の布告であった。

I「マシュピー族の叛乱」“Marshpee Revolt”と呼ばれるこの事件は、以下のようなものである。マシュピー居留地には、ハーヴァード大学から監督官が派遣され、教会で先住民への説教と教育が行われることになっていたが、実際のところ、監督官は、先住民を無視して白人に説教を行い、居留地の土地や先住民布教用の基金を乱用していた。周辺の白人住人も、居留地の森林の木を勝手に伐採して持ち出していた。ピークォット族のApessは、ニューイングランドを旅して説教を行っていたが、マシュピーに招かれ、その住民と協力して、監督官の解任を求め、自ら牧師を選ぶ権利、居留地の財産である森林を守る権利を求めた。また、州政府がマシュピー族に課した不平等な法律の撤廃も要求した。Apessは扇動者として逮捕されながらも、The Advocate誌の記者らの協力も得て、要求を成就させた。

Apessの全集が1992年に出版されて以来、徐々にApessに関する研究が行われてきた。これは、アメリカ・ルネッサンス期のマイノリティの声を復活させ、この時期の文学を多様な現象として捉えるためにも欠かせない作業であろう。Apessの自伝や著作は、支配者の言葉、英語を用いているにもかかわらず、「明白な運命」とインディアン強制移住法の時代に生きる先住民の視点を提供し、白人主流文学の言説と先住民表象を書き換えている点で画期的である。Apessの活躍を可能にした地盤を、様々な社会運動から読み解いていく予定である。具体的には、第二次大覚醒運動の勃興とともに、逃亡奴隷、先住民、貧困者たちを吸収していったメソジスト派の運動、奴隷制廃止運動とチェロキー族強制移住反対運動、数々の社会改革運動、出版・報道界の発達などが背景にあり、主流作家だけでなくマイノリティや様々な階層の人々を巻き込んだ現象がアメリカ・ルネッサンスを形成しているのである。


本田安都子 愛知県立大学(非常勤)


本発表は,Anzia Yezierska (1880?-1970) の“The Deported” (1920),“The Lost ‘Beautifulness’” (1920),“America and I” (1923),“Brothers” (1923),“The Song Triumphant” (1923) などの散文詩および短編作品を,これらの作品に見られる「贈与行為」に着目して再読する試みである。

Yezierskaの作品においては,しばしば東欧ロシアのユダヤ人居住区での生活が描かれるが,その際,そこでのユダヤ人コミュニティーが贈与によって連帯されていることを示唆する場面がいくつか見られる。例えば,Red Ribbon on a White Horse (1950) には主人公が東欧での生活を回想する場面があり,そこでは,ユダヤ教のラビが近所の子供たちにヘブライ語を教え,その子供たちの親がお返しに食べ物を寄進するという習慣が語られる。このように,Yezierskaの作品において,東欧ロシアのユダヤ人コミュニティーは,市場交換経済とは異なる交易体制によって成り立っていたコミュニティーとして描きだされる傾向にある。

アメリカを舞台にした作品でも東欧系ユダヤ移民の間の贈与行為は散見され,それは東欧系ユダヤ移民やそのコミュニティーを特徴づける行為として描かれている。例えば,“The Lost ‘Beautifulness’” では,ユダヤ移民女性が,息子のために自らの手によって自宅を美しく改装し,更には近所の人たちを改装した自宅に招き,手料理をふるまおうとする様子が語られ,また,“Brothers” では,あるユダヤ人青年がロシアに残してきた家族をポグロムの脅威から救うために,彼らのアメリカへの渡航費を青年に寄付するユダヤ移民たちの姿が描かれる。このように,本来ならば,移民としてアメリカへ渡り,経済的に苦しい生活を強いられている東欧系ユダヤ移民が,人に何かを与える,贈与する人々として描かれている点にYezierskaのユダヤ移民描写の特徴を見ることができる。このことは,当時,東欧系よりも一世紀ほど早くアメリカへ来ていたドイツ系ユダヤ社会から,東欧系ユダヤ移民社会が金銭面だけでなく,モラルや教育など様々な面で「援助」を必要とする存在であると見られていたことを考慮に入れれば,特筆に値することといえる。

以上のように,一見すると,Yezierskaの描きだす東欧ロシアのユダヤ人コミュニティー,つまり贈与体制によって特色づけられるような東欧ロシア・ユダヤ人社会は,新天地アメリカにおいても生き延びているように見える。しかし,そこで物語が終わることはない。東欧ロシアにおいてはユダヤ人コミュニティーの連帯を示唆していた「贈与行為」が,アメリカにおいては,市場交換体制によって,時に飲み込まれ,または打ち負かされてしまう姿をYezierskaは描写するのだ。今回の発表では,そのような「贈与」の「敗北」について,前述のYezierskaの作品群の精読を通して検証していきたい。


藤井  爽 名古屋大学(院)


Jane Gallop(1952-)は“Reading the Mother Tongue: Psychoanalytic Feminist Criticism”(1987)において、1985年に出版された自身の論文も所収されている論文集、The (M)other Tongue を分析する中で、母の語りを分析するための方法論を提示している。この論集はShirley Nelson Garner, Claire Kahane, Madelon Sprengnetherらによって編集され、主に精神分析を使ったフェミニスト・リーディングを扱っている。本発表では、この方法論に基づいてAmy Tan(1952-)のThe Joy Luck Club (1989)を読み解いていく。

Gallopはアメリカにおけるフェミニズムにおける精神分析の立ち位置やその流入の仕方、またラカン派と対象関係理論派の対立などを述べた後、論集の分析に入る。1970〜80年代に顕著だったフェミニストによる母親像の賛美について、Gallopはその行為がフェミニスト間の違いを覆い隠そうとするものであることを指摘している。現在ではフェミニストと一括りにされていても、その中には違いがあることは認識されているが、母親の名の元に差異が隠されることは現在でも起っていることであり、この視点は今でも重要だといえる。

Gallopは差異を他者性という言葉に置き換えて、論集のタイトルが示唆するmother tongueにすでに侵入しているother tongueについて考察をする。Gallopによれば、この論集は序文において精神分析とフェミニズムの結婚を華々しく祝福して始まるが、最終論考によって両者は離婚しているという。そしてその結婚を祝い、両者の違いを隠そうとしたのが母親像であったというのだ。フランスのフェミニストたちが注目した前エディプス期の母子関係でさえ、すでに家父長制の言葉で語られていることを述べ、前エディプス期の母はすでに他者であり、ラカン派の禁止された不在の母でもなく、対象関係理論の幼児の鏡でしかない母とも違った母をギャロップは提示する。そして、最後に母を他者として見て、母の語りの中に潜む他者を読むことを提案する。

The Joy Luck Club は発売当初から、母の語りを実現した小説だとして好意的に読まれてきた。しかし娘を救おうとする良き母親像の評価は、その陰で自己犠牲をして死んでいった母親たちの存在を覆い隠すことにも繋がる。四組の母娘の差異を無視するような読みは、娘を救う良き母親像をただ一つの母親像として提示することになりかねない。本発表は母と娘の語りに、従来の批評が評価した母親像以外の描写が紛れ込んでいるという観点から、母親像の中に潜む他者を読んでいこうというものである。

問題とするのは、死んだ母との葛藤を抱える娘が母の故郷の中国を訪れることで、その葛藤を解消するという筋書きである。娘の葛藤とは母の期待に添えなかったことや、母の真意が分からずにいることなどである。ここではGallopが指摘したような解消できない他者性が中国という存在によって霧散している。精神分析とフェミニズムの違いを覆い隠す母親像のように、中国という存在が娘の葛藤を覆い隠しているのではないだろうか。そうだとすれば、母の語りを実現してきたとされる評価は一変することになる。小説中の約半分を占める母の語りが、娘の葛藤を覆い隠すものとして機能していると読めるからである。


寺澤由紀子 明治大学(非常勤)


本発表では、Karen Tei Yamashitaの小説Tropic of Orange (1997)を取り上げ、主要登場人物の1人であるManzanar Murakamiのスコポフィリア(scopophilia)の形態について考察する。「見る欲動」と定義されるスコポフィリアは、Freudによれば、窃視と露出の二種類に分けられるが、Freudは、「見る」行為である窃視には、能動性、男性性そして主体としてのポジションを、「見られる」行為である露出には、受動的、女性的な客体のポジションを結び付けている。この主体・客体の関係においては、視線は一方的に働き、弱く受動的で女性的なものは、強く能動的で男性的なものの従属物であり、常に主体によって「見られるもの」であるとして固定されてしまう。そして、「見る」「見られる」「見られるために提示する」という行為が、記憶や自己の形成過程に不可欠であることを考慮すると、個人的レベルでも集合的レベルでも、そしてジェンダー、階級、人種といったあらゆるカテゴリーにおいても、主体にとって不都合な客体の記憶は不可視化され、結果、客体は健全な自己感覚の形成を阻まれることになると言える。このような負のエネルギーを持つ二元論的スコポフィリアを覆し、新たなスコポフィリアの形を示しているのがManzanarである。日系アメリカ人のホームレスManzanarは、毎日フリーウェイにかかる陸橋に立ち、町が作り出す様々な光景を見つめ、様々な音を聴きながら、それらの音や光景を使ってシンフォニーを作り、それを演奏する想像上のオーケストラの指揮をする。彼のスコポフィリアは、そうした音楽活動に密接に関わるものである。まず彼は、自らの日系アメリカ人ホームレスとしての身体を、陸橋に立つ指揮者として最大限に露出することで、社会の中で客体化され、抑圧され、不可視化されているマイノリティ、ホームレスという身体を再主張する。さらに、誰も敢えて見ようとはしないもの、つまり、アメリカの集合的記憶の中では無視され、抹消された様々なナラティブを見つめる行為に従事し、そのようにして見つめたものを音楽として表現し、再提示することで可視化させていく。本発表では、こうした一連の「見る」「見られる」「見られるために提示する」という行為を通して、Manzanarが、日系アメリカ人の強制収容によって傷ついた自己の回復を図るだけでなく、二元論的スコポフィリアを通して構築されたいわゆる「弱者」の記憶を書き換える試みをしていることを主張したい。