1. 第4室(般2-203教室)

第4室(般2-203教室)

開始時刻
1. 午後2時00分 2. 午後2時55分
3. 午後3時50分 4. 午後4時45分(終了5時30分)
司会 内容
早瀬 博範

1.Fitzgeraldと空間の比喩――Tender Is the Night における旅と精神分析

  井出 達郎 : 北海道大学(院)

2.Faulknerの作品に見られるPaternalismと人種差別

  海上 順代 : 東京都立産業技術高等専門学校

島村 法夫

3.男が料理を作るとき――“Big Two-Hearted River”における食文化とマスキュリニティ

  瀬名波栄潤 : 北海道大学

 

4.セッションなし



井出 達郎 北海道大学(院)


今発表では、FitzgeraldのTender Is the Night (1934, 1951)における「旅」と「精神分析」というモチーフを、空間の比喩という視点から関連づけて考察する。特に、20世紀全体における空間の想像力の変容を補助線にしながら、彼の目指した「時代のモデル」としてのこの作品の意義を、空間という主題から照らし出してみたい。

もともとFitzgeraldは、The Great Gatsby (1926)や”The Swimmers”(1929)といった作品にみるように、アメリカの象徴としての西部が生み出したような、まだ見ぬ未踏の土地に向かって進み続けるという心象風景に魅せられてきた作家であった。しかし、彼が生きた19世紀末からの20世紀初頭は、そのような「まだ見ぬ未踏の土地」を急速に消滅させていく時代にほかならなかった。帝国主義の地球規模的な展開、交通手段やメディアの発達、フロンティアの消滅、第一次世界大戦といった出来事は、かつては遠くにありて思うものだった場所を一挙に接続させ、「ここ」と「あそこ」という区別を次第にぼかしていきながら、世界をひとつの移動可能な領域へと変貌させていった。そこではもはや、到達すべき彼方の場所という空間の比喩が、実際の地理的状況においても、またそれを思う心理的状況においても、意味をなさなくなり始めていたのである。

SpenglerのThe Decline of the West (1918)といった著作や第一次世界大戦の資料に大きな関心を持っていたFitzgeraldは、このような空間の想像力の時代的な変容を、旅と精神分析という題材を通して描き込んでいく。Rosemary Hoytに代表される作中の旅行者は、発達した乗り物の恩恵を十分に享受し、どこへでも行けるという恵まれた状況にあるかのようにみえる。しかし、彼らは決して異国に来たという感情を持つことができない。商品の世界的な流通、ハリウッド映画のイメージの蔓延、世界大戦が引き起こした明確な国民意識の薄れなど、距離を飛び越えて働く想像の共同体の中に、彼らは閉じ込められ続けるからである。他方、主人公Dick Diverが携わる精神分析は、同じ過程を内面的世界において進行させていく。それは、異常な精神状態、すなわちDickの言う「意識のフロンティア」を越えた領域を探求する一方で、彼の症例の実践的分類の研究にみるように、そうした未知の場所を、ひとつの体系化された全体へ収束させていこうとする。内面的世界における辺境の地もまた、その遠さを保ちつづけることを許されず、より大きな包括的空間へと回収されていくのである。

しかし、まさにこの遠くを幻視することができない行き詰まりの状況から、空間の比喩の新しい可能性が押し出されるようにして現れてくる。主人公Dickの転落の物語は、旅と精神分析の両方から切り離される過程として描かれるのだが、同時に、それらが行使する力の圏内をはみだすような運動をもほのめかされていく。それは、遠くの場所を目指すという水平的な移動ではなく、拡がりを失った「いま・ここ」という場所を、いわば垂直に貫くような運動である。同一の場所に違う次元を見出していくこの運動は、あたかもエピグラムのキーツの詩の引用をなぞるかのように、遠くを幻視する視力を奪われた空間の中にあって、なおかつ垂直の方向から感じられる何かのように、時代の要求する想像力を超えていく、空間の比喩の新しい次元を予感させるものである。


海上 順代 東京都立産業技術高等専門学校


William Faulknerの黒人像は多くの批評家が分析してきたが、現在定着している評価をふまえつつpaternalismという概念から再検討する意義はあるのではないだろうか。Faulknerの黒人像の批評は、初期の作品で断片的に現れる黒人への言及に始まり、後期の作品の主要登場人物となるLucas Beauchampの人格、特に独立心や威厳を高く評価する傾向にある。しかし初期・中期の作品の黒人登場人物も、paternalismという観点からLucasと比較して興味深い点が多いと思われる。白人の黒人に対するpaternalismに注目することで、Lucasに劣らず他の黒人登場人物も南部白人のエゴを映し出す「鏡」としてその完成度を再評価できるのではないだろうか。

Faulknerの作品でもSoldiers’ Pay (1926)など最初期の作品では、風景の一部のように黒人の姿が垣間見られるだけであるが、Yoknapatawpha Sagaの最初の長編小説Sartoris (1929)から黒人登場人物の人格が描かれ始める。SimonはSartoris家に仕えてきたが、白人の主人の「良心」につけこむ黒人として表象されている。預かった金銭を又貸しし、主人のBayard Sartoris (old Bayard)に損失分を肩代わりさせる彼は、old Bayardが自分を罰することが出来ないと居直っているのである。しかし白人に損失した金銭の支払いをさせる、白人より道徳的に劣る黒人、という白人が求める「黒人像」に当てはまるSimonは、白人の脅威にはならない。Simonはpaternalismを利用し利益を得ているのであるが、「自尊心を持たない黒人像」という白人が望む黒人像に同化しているのである。

30年代のFaulknerの人種問題を扱った作品Absalom, Absalom! (1936) では、白人とCharles Etienne de Saint Valery Bonなど「混血児」の関係が描かれている。白人たちの差別意識からくる冷遇だけでなく、paternalisticな対応も、白人にとって混血児は「黒人」でしかないことを表していると思われるのである。

後期の作品では、paternalisticな対応に反発する黒人だけでなく、そうした対応への白人側の違和感や変化も描かれている。そして、Go Down, Moses (1942)の“The Fire and the Hearth”に続き、Lucasが中心的人物となるIntruder in the Dust (1948)では、Lucasのpaternalisticな対応への反発と拒絶が描かれている。Lucasの明確な態度から、Lucasのみが「白人にも劣らない自尊心や人間性を持った黒人」である印象を読者に与える。しかしそれは、Lucasに白人名家の血が流れているという背景やそれに伴う財産がある為と考えられる。この点を考慮すると、時にはコミカルで、時には常軌を逸した言動で白人を翻弄する「黒人」が、誇るべき血縁も財産もない立場で、(意図的でない場合があるにしても)白人のpaternalisticな心情に訴えずには「有利な状況」や「自分の居場所」を手に入れられなかったとも考えられるのである。今回の発表では、Kevin RaileyのNatural Aristocracy 等のpaternalismの先行研究を踏まえつつ、階層化された南部社会に於けるFaulknerの黒人像を再検討してみたい。


瀬名波栄潤 北海道大学


Ernest Hemingwayの初期の短編”Big Two-Hearted River”は、作家の氷山の理論をもっとも効果的に用いた作品の一つであり、これまで様々な読みが試みられてきた。その際、「川」「釣り」「スワンプ」は重要なカギとなり、作品解釈上の起点となった。にもかかわらず、これらと同等以上に詳述される「料理」についてはあまりにも軽視されてきた感がある。本発表では、Nick Adamsが挑戦する料理の意味について、食文化やジェンダーの視点から検証する。

これまでの定着した読みの一つは、短編集In Our Time の最後を飾る作品として、混沌とした時代に敢えて希望を捨てない失われた世代の若者を描いているとするものである。もう一つはPhilip YoungのThe Nick Adams Stories の時系列に沿った読みであり、戦争で負傷し臨死を経験した主人公が精神的再生のための癒しの旅がそれであるという考えである。いずれも、生/死、理想/現実、希望/幻滅といった対立する二項の狭間で苦悶する主人公の姿を、川の名前が象徴的に表しているといった点で共通しており、これにHemingway自身の戦争体験を重ね作家を神話化する伝記的解釈も付加されてきた。

このような劇的解釈と対照的なのが、作品の材源研究である。この作品は、1919年8月下旬、Hemingwayが友人Jack PentecostとAl Walkerの3名でミシガン州Seneyという町を流れるThe Fox Riverで釣り三昧に興じた1週間を基にした話であること。だが、森林火災などはなく焼けたのは古いホテル一軒のみであったこと、そこから45マイル北東に位置する実在のThe Two-Hearted Riverで彼らは一度も釣りをしなかったことなどが明らかにされている。また、作中登場するHopkinsなる人物はHemingwayがKansas City Star紙で働いていた頃の同僚でオクラホマ州出身のCharlie Hopkinsであったことなども、材源研究の成果だ。よりTextualなアプローチでは、この作品の構想や草稿・断片の存在についても議論されてきた。

しかしながら、”Nick was hungry. He didn’t believe he had ever been hungrier”に表現されるように、主人公の食欲が作品の主題であると言っても過言ではない。生への執着や再生への可能性を示唆しているのは明らかだ。ならば、この旅において目的であったはずの鱒を釣りあげ、それを作中で食べさせてあげれば話は済むことであっただろう。ところが、主人公は魚を食すことはない。そのかわり、彼は自らアプリコットやポーク&ビーンズそれにスパゲティーの缶詰を開け料理を始める。その次はそば粉で作るパンケーキだ。従来は女の領域とされる料理に、Nickが挑む。戦争で負傷し男らしさを示すことができなかった敗北の結果として、Nickは女性化してしまったのか。本発表では、この「料理をする男」の真相に迫りたい。