1. 第3室(般2-103教室)

第3室(般2-103教室)

開始時刻
1. 午後2時00分 2. 午後2時55分
3. 午後3時50分 4. 午後4時45分(終了5時30分)
司会 内容
石原  剛

1.“Three Thousand Years Among the Microbes”における死と救済

  浜本 隆三 : 同志社大学(院)

2.Kate Chopinの“Lilacs”における異性愛と同性愛の二重性について

  宇津まり子 : 山形県立米沢女子短期大学

別府 惠子

3.停滞と移行のモチーフ――The Reef における建築とインテリアの機能

  水口 陽子 : 関西学院大学(院研究員)

4.O Pioneers! における「静」と「動」のモチーフ

  西田 智子 : 九州産業大学



浜本 隆三 同志社大学(院)


Mark Twainが70歳を目前にして書いた未完の草稿“Three Thousand Years Among the Microbes”(以下“Three Thousand Years”)は、細菌らとの対話に物語の主軸がおかれ、取り上げられる話題は人類史から宇宙論まで多岐に渡り、一読では理解しづらい混沌とした作品である。だが、物語の冒頭で強調される、人間と細菌の世界を隔てる物理的な差異が、後半部で語られる対話の主題として取り上げられている構成に気がつけば、首尾一貫した作品像が浮かびあがる。“Three Thousand Years”は構成だけでなく、描かれる物語も完結しているように思う。発表を通し、この作品が死と救済について語られた物語である点を論証する。

まず、なぜTwainが細菌の世界を描いたのか明らかにしなければならない。Twainは善・悪二元論的な世界観の枠組みのなかで、‘Huck’を悪性のコレラ菌として描くことによって、悪である自分であっても救済されるのかどうかを問う筋書きを前半部に設けた。結果、悪性を極めるAfrican Sleeping Sicknessの菌から、万物は確かに救済されると‘Huck’は教えられるが、ここで、救済の確証を与えた存在が、善ではなく神でもなく、悪の頂点に立つ細菌であった点に注目しなければならない。絶対悪から諭される救済の確証。この逆説的で皮肉な構図に、救いを求めるTwainの迫真性と切実さが読み取れる。

細菌の科学者と‘Huck’との対話は、埋まらない世界認識のズレを滑稽に描きつつ、その実、両者に共通する人間的な資質を暴き出していく。‘Huck’が語る「真実」をフィクションだと言い張る細菌の頑固な姿には、人間臭い意固地な性格が認められる。合理性、論理性にはうるさい彼らであるが、‘Huck’がでっちあげた「黄金郷のフィクション」を、真実だと妄信するその姿から、細菌も‘Huck’さえも、しっかりと物欲を宿した不合理な生物である点が明らかになる。つまり、理性的な世界観のズレは、学者の卑小なプライドとして炙り出され、両者の差異は、人間臭い資質によって越えられているのである。細菌と人間との差異が消滅したこの先に、どのような物語が期待できようか。

結末部で‘Huck’は長い眠りにつく。彼を眠りへと導いた安らぎは、黄金をひとり占めできると確信した安堵にあったわけではない。細菌と自分との共通性にこそ安寧の核心がある。というのも、科学者らと自分との間に見いだされた人間臭い性質は、死の権化ともいえる悪性の細菌との共通性でもあり、ここに死と和解した‘Huck’の達観が認められるからだ。

「救済の確証」と「死との和解」、発表ではこの二つの筋立てにそって“Three Thousand Years”を読み解き、ちょうどOliviaの一周忌を挟み執筆に励むなかで、心の安寧を模索するTwainの姿について論じる。


宇津まり子 山形県立米沢女子短期大学


Kate Chopinの短編“Lilacs”(1896)については、1970年代のChopin研究の初期から主人公AdrienneとAgatheを巡るレズビアン解釈とヘテロセクシュアル解釈が共存している。どちらが正しいのかという軍配ではなく、この両義性がどのように可能になっているのかを探るのが本発表の目的である。

5年程、毎年春に2週間、修道院を訪れていたAdrienne Farivalが、ある年、唐突に門前払いされ、相互に強い愛着を感じていたAdrienneとシスターのAgatheが、修道院の内と外で泣き崩れているという物語であるが、追放の理由として、女優であるAdrienneの普段のパリでの生活がMother Superiorの耳に入ってしまった、あるいは2人の間に女同士の愛情が存在していたという2つの解釈が存在してきた。

ヘテロ解釈を採る批評家が注目するのは、Adrienneのパリでの生活全般、特に、1年の間に2つの名前が挙がる男たちとの愛人関係、そしてそれらを隠し、あるいは偽って修道院を訪問していたという虚偽性である。しかし、10ページ程のこの作品は、そもそも修道院での数日とパリでの2日しか扱っておらず、また語り手や登場人物たちの言葉を詳細に追っても、Adrienneがなぜ毎年修道院を訪れるのか、訪れることで何を考え、感じているのか、パリでの生活にどういった問題があるのか等については、具体的には言及していない。

それにも拘らず、多くの批評家がAdrienneの人格にどこか問題があるかのように解釈してきた。それには、この作品がAdrienneを舞台に上がり、公に身体をさらし、歌い、演じるという「女優」として設定していることが大きく影響している。娼婦と共に「公の女」とされる「女優」には、演じるという仕事から派生する虚偽性や性的放縦さなど、様々なイメージがつきまとう。“Lilacs”はこれを参照点として設定し、テキスト外からAdrienneという人物を規定するという構造を取っている。「女優」という設定は、Adrienneが子ども時代を過ごした修道院を無垢に懐かしんでいると捉えることを阻害し、そこに意図的な演技や悪意を読み込ませ、会話の中に登場するだけで姿さえ見えない男たちを「愛人」として読み込ませる。

Chopinの別の短編“Fedora”(1897)について、最後の女同士のキスシーンがレズビアン解釈の起点になるとC. Bucherは指摘しているが、“Lilacs”の最終場面でも、Agatheはわざわざ前年にAdrienneが眠ったベッドまで行って泣いており、そういった意味では “Fedora”と同様の構図を取っている。そして上述したように、「女優」に人物規定をさせ、作品自体には多くの空白を残すという構造が、レズビアン解釈をも同様に成立させていると考えられる。


水口 陽子 関西学院大学(院研究員)


The Decoration of Houses (1897)やItalian Villas and Their Gardens (1904)等の建築に関する著書を著したことでも知られるEdith Whartonは、建築や庭、内装への並々ならぬ関心を小説中の建物や部屋の内部に詳細に描きこんでいる作家の一人である。早くから、Whartonと建築や室内空間との関わりについては議論がなされてきたが、個々の作品における具体的な建築とインテリアのモチーフに関する分析は、The Age of Innocence やThe House of Mirth などの代表作に見られる内装の研究にとどまっている。

本発表では、Henry Jamesによって「Walter Gayの絵画のように光揺らめく、Whartonのフィクションという見事な家々の中でも最高」と評された、1912年発表のThe Reef を中心に、部屋、扉、絵画などが織り成す室内空間が作品のテーマといかに関わり合っているのかを、主な登場人物の一人であるGeorge Darrowの視点を中心に詳細な分析を試みたい。

本作のBook 1の最後に位置するDarrowとSophy Vinerが親密さを深める場面において、ドアは重要な役割を果たしており、それはDarrowにとっての、さらにはこの小説の主要登場人物すべてにとっての転換ともなる出来事の重要なモチーフとして機能し、Darrowの揺れ動く心情を表すための有効なモチーフとして描かれている。さらに、ドアとも深く関わる「敷居」をこの作品における転換、移行の場として位置づけ、物語の転換と比較しながら論じる。

また、Wharton作品において絵画、舞台(空間)の重要性は見逃すことができず、この作品ではこのような芸術と空間の交錯するモチーフがふんだんに用いられている。例を挙げるならば、DarrowのAnna Leathを見つめる視線の中につきまとう、建築や絵画、彫刻としてのAnnaのイメージの中には、女性の「神格化」と「閉じ込め」の両方の要素を読みとることができるだろう。このような、建築や絵画、さらには蒐集などに見られる、対象(人物や過去)の「閉じ込め」と、フランス貴族社会とアメリカにまたがる旧社会と新しい世代とのせめぎあいやジェンダーにまつわる問題点とのかかわりを、停滞と移行をキーワードに読み解ってみたい。

その他にも、Wharton作品には、窓や鏡、門などといったモチーフが物語の展開やテーマの上で重要な機能を果たしているものが多く、他の長編や短編小説などの考察も交えながら、Whartonの作品における建築とインテリアの機能を再考することによってThe Reef の再評価を試みたい。


西田 智子 九州産業大学


Willa Catherの O Pioneers! (1913)の中では、Cather自身が子供時代に目にしたネブラスカの自然や辺境開拓民の生活、アメリカ西部における新しい農園と社会の創造の過程が描かれる。スウェーデンからの移民であり、異分子としてアメリカの大自然と人間社会に介入していくBergson一家にとって、未開のネブラスカの荒地は最初、人間に対して何も与えてくれない、閉ざされた「静寂」の空間であったが、家族とその長女であるAlexandraの努力と才覚により、ついには豊かな収穫をもたらす農場へと「動き」はじめ、生まれ変わるのである。Alexandraはこの大地の変化を、“The land did it. . . . It woke up out of its sleep and stretched itself”と語る。Alexandraにとっての大地のイメージが象徴するように、この作品における開拓者の人生経験には「静」と「動」の要素が繰り返され、またそれがパラドクシカルなことではあるが互いに引き合う経験の要素として描かれていると言える。そこで本発表では、「静か」な安定を求めてたえず「動く」Alexandraをはじめとする登場人物達に訪れる、「静」と「動」の経験が意味するものを、同時代のアメリカのナショナリティーというコンテキストの中で考察していきたい。

Joanna L. StrattonはそのPioneer Women (1981)の中で未開地に適応する人間には「特別強固な、不屈の精神が必要だった」と述べるが、Alexandraはまさに少女のころから強い意志と才覚を備え、また男性を労働者として見ることしかできないまま、土地を切り拓き農場を創り上げることに成功する。彼女のプラクティカルな生き方には迷いがなく、彼女は弟たち男性を「動かし」、采配する立場であり、決して自然の猛威に「流されない」努力を継続する。ところがそんなAlexandraがたびたび見る、彼女の潜在的な欲求を表す夢と、彼女が幸福の象徴と感じ取った光景は、彼女の方が屈強な男性に軽々と抱き上げられ「動かされる」夢であり、また水の「流れ」に身を任せ全身で幸福を楽しむ野ガモの様子である。また生活の安定を手に入れたはずのAlexandraは、根なし草のような放浪生活を送ってきた幼馴染のCarl Linstrumの生き方に憧れを感じ、末弟Emilにその夢を託そうとする。この時点でAlexandraはCarlの動態を評価し、逆に彼女の生活を、“We grow hard and heavy here. We don’t move lightly”と表現することでそれを向上性に欠ける停滞状態ととらえるのである。このようにAlexandraは「静か」な安定を築く力を持ちながら、同時にその日常性を破る変化へと「動いて」いかずにはいられないのであり、最終的には弟たちの反対を押し切ってCarlとの結婚という新生活へと「動く」。Emilもまた姉の希望や思惑のうち「静か」に留まる人物ではないことは示唆的である。

Alexandraと彼女にまつわる人物達が一つの安定と静かな日常を手に入れた後、また新たな自己実現の欲求に向かって動き続ける様子は、Catherが感じ取った、開拓民たちの解放されていく個人性の表象であり、たえず思い描かれる幻想の楽園と休息の場所を求めて動き続けざるを得ない同時代のアメリカのナショナリティーの一面を示していると考えられるのである。