1. 第1室(般2-101教室)

第1室(般2-101教室)

開始時刻
1. 午後2時00分 2. 午後2時55分
3. 午後3時50分 4. 午後4時45分(終了5時30分)
司会 内容
丹羽 隆昭

1.個人から共同体の弔いへ−“Roger Malvin’s Burial”における遅すぎた埋葬

  小宮山真美子 : 中央学院大学(非常勤)

2.Hawthorne の長編におけるembedded narratives――Text World Theoryによる読解の試み

  西前  孝 : 岡山大学

田部井孝次

3.分裂するTommo――Typee におけるメタファーとしてのカニバリズム

  大川  淳 : 関西学院大学(院)

4.滅私のすえに――Israel Potter における自己の有り様

  高橋  愛 : 徳山工業高等専門学校



小宮山真美子 中央学院大学(非常勤)


1832年に雑誌The Token に掲載されたNathaniel Hawthorneの短編“Roger Malvin’s Burial”は、物語の時代設定を1725年の「ラヴェルの戦い」の史実に依拠している。しかしながら語りではインディアンへの奇襲攻撃には触れておらず、負傷しつつも生き延びたReuben Bourneの18年間の人生が、家族という小さなコミュニティに的を絞って描かれている。その始まりと終わりに置かれているのが、家族内で起こった「二つの死」である。ひとつめはReubenの戦友であり後に義父となるRoger Malvinが、荒野の中で朽ち果ててゆく姿。ふたつめはRogerを置き去りにした同じ場所に横たわる、マスケット銃で誤射した息子Cyrusの死体である。Rogerの墓でもある岩の下でReubenの息子が息を引き取る循環的な枠組みに対し、Reubenの義父遺棄罪を愛息の生贄で贖ったと読む批評は多い。しかしタイトルにもなっている「埋葬」の行為そのものに焦点を当てた議論は稀なように思う。

本発表では、家族の歯車を狂わせた起因がReubenの「埋葬の行為の遅延」にあると仮定し、Hawthorne作品における祖先への弔いの意識を考察する。Rogerの死を看取ることなく一人生還したReubenは、「今でも生きていて岩の根元で助けを待っている」義父の幻影と、「埋葬されていない死者が荒野から呼んでいる」声に苛まれていた。これはReubenが義父との約束を不履行のままにした状態から生まれた心理作用であり、遺棄されたRogerの呪いと読むことは難しい。なぜならRogerが別れの際にReubenに告げたことは唯ふたつ。娘Docasと結婚し子孫繁栄を願ったことと、「傷が癒えて体力が戻ったら、ここに戻ってきて墓に骨を埋めてくれ」という埋葬の約束である。しかしDocasにも共同体の人々にもRogerの弔いを果たしたと称賛されたReubenは、自分の嘘を正すことも出来ぬまま埋葬を先延ばしにしていた。その結果、子孫繁栄、更には共同体の発展をも破綻させてしまう。なぜならCyrusは周囲から将来の指導者と見込まれており、語り手も「一族の祖、民族の長、そして未来の強国の創建者」の姿を彼に見出していたからだ。Cyrusの存在は家族という小さな単位を越え、独立を前にしたアメリカ国家の共同体を担う可能性をも持ち得た。よってReubenがCyrusを自らの手で殺めたことは、国家の未来の芽の一部をも摘んだことになる。この悪循環ともいえる家族の崩壊劇は、ReubenがRogerの亡骸を埋葬する「行為」を怠ったことから招いた結末なのだ。

Hawthorneは死者を弔う過去への意識を、現在から未来へと繋げる健全な時間を生み出すための共同体の営みと捉えている。3年後に発表した”Alice Doane’s Appeal”(1835)では、17世紀末の魔女騒動の末、Gallows Hillに祖先を弔うための「黒ずんだ墓石」すら建てられていないことを悲嘆し、またThe House of the Seven Gables (1851)でも清算されていない祖先の過ちを「巨人の死体」に例え、過去の埋葬こそが現在の時間を循環させる手立てだと指摘している。これらを考慮しつつ、本発表では18世紀に時代を設定し家族の埋葬をし損ねたこの物語を、Ruebenが父と息子を失ったように、国家の未来が過去の代償となる危険性を孕んでいるという観点から検証したい。


西前  孝 岡山大学


比較的最近の物語(読解)理論の一つとして、Text World Theory(テクスト世界理論) というテクスト分析の方法が提唱され、実践されている。これは、その理論的背景として哲学的には可能世界理論(意味論)、言語学的にはディスコース分析・語用論・認知言語学・修辞学と比喩論、そして文学理論的には文体論(Stylistics)と物語論(Narratology)に基礎を置くテクスト分析法である。

他の多くの理論・方法がそうであるように、この理論も21世紀初頭にあって現在その精緻化の途上にあり、今後も何ほどか変容しつつ成長していくものと思われるが、基本的な分析の道具立ては既に揃っている。

テクニカルタームの主なものとしては、

Narratology: narration; narrator; focal point(point of view); limited omniscience; represented speech(free indirect speech); diegesis; deixis; mise-en-abyme, Modality:boulomaic; deontic; epistemic; hypothetical; conditional, Embedding: embedding(primary) narrative; embedded(secondary) narrative; flashback; flashforward

などに触れることになる。いわゆる「ミザナビューム」の概念は、厳密な議論においては、物語本体のプロットをいわば縮図の形で可能な限り忠実に再現すべく埋め込まれたものに限られるようであるが、本論考は、この概念を緩やかに適用し、その可能性をテクスト世界理論との関連性の中に位置付ける試みである。物語の本筋(そのようなものがそもそもあるのか、という議論は今はさておき)の中に埋め込まれて、何ほどかまとまりを持つ大小さまざまなエピソードを取り上げ、ミザナビュームというよりはembedded narrativeとして位置づけることを通じて、テクストの縦糸と横糸を読み解く試みである。ホーソーンの長編からThe House of the Seven Gables、The Blithedale Romance および The Marble Faun の中のいくつかの章を取り上げる予定である。

歴史の流れの中で、複雑化することをやめない社会の諸システムにおかれた人間の、内的・意識的・無意識的世界を言葉で捉えることが文学の使命あるいは特権であるなら、ホーソーンのテクストの中に大小さまざまな入れ子構造を確認することは、彼の認識と言葉と文学に接近する重要な方法の一つであると思われる。


大川  淳 関西学院大学(院)


Herman MelvilleのTypee: A Peep at Polynesian Life におけるカニバリズムのテーマに焦点を当て、Typee谷を賞賛すると同時にそこからの逃避願望を抱くTommoの矛盾した状態を考察する。これまでのTypee の伝統的な批評史は主に二つの観点で分類することが出来る。一つはTypee をMelvilleのポリネシアでの実体験に基づく伝記的作品として捉えるものであり、もう一つはこの作品の文学的な芸術性を分析することによって純文学として捉える観点である。また、これらの伝統的な批評史に加えて近年の批評史では、ポストコロニアリズム批評の視点からTypee における文化的表象にも焦点を当てる傾向がある。

しかしながら、こうした批評史の蓄積に鑑みても、依然としてテクスト分析にはさらなる解釈の余地があるように思われる。たしかにこの作品はMelvilleの実体験に基づいて書かれてはいるが、過剰な誇張表現を用いる語り手Tommoの語り口に注目してみるならば、Typee族との生活は客観的に観察するような視点で描かれているとは言い難い。このことを予表するかのように、第四章で舞台となるNukuheva島を“a vast natural amphitheatre”とTommoは喩える。これから語るTypee族との生活をあたかも脚色された演劇のように描写しようとする彼の姿勢が、ここに読み取れる。つまり、Typee の伝記的要素あるいは客観的事実としての要素は希薄化し、むしろTommoの意識によって脚色された極めてフィクショナルな要素が窺われるのである。これらのことから、Typee をTommoの意識が紡ぐフィクションとして捉え、そこからこの作品を考察する余地があると言える。

Typee において最も難解な問題の一つとして、Typee谷を“Happy Valley”と形容する一方で、そこからの逃避願望を抱くという矛盾したTommoの状態が挙げられる。彼の逃避願望を誘引するものは、主にカニバリズム、タトゥー、足の病である。しかし、Tommoはこれらを説明する際“inexplicable”や“mysterious”という形容詞を多用し、逃避の原因となるこれらの核心は極めて曖昧に語られる。とりわけ、Tommoは食人行為を直接目撃することはなく、カニバリズムは読者に対して常に隠蔽されるかのように語られる。また、タトゥーと足の病に関してカニバリスティックな要素を匂わせ続けるTommoの語り口を踏まえれば、カニバリズムに関する表層的な食人行為を、比喩的なものへ変容させるMelvilleの意図が浮き彫りになるのではなかろうか。

本論では、テクスト内におけるカニバリズムを彷彿とさせるタトゥーと足の病に纏わる描写に焦点を当て、これらがモティーフとしてどのように絡み合ってTypee を構成しているのかを検証する。また、それによってTypee の主題であるカニバリズムを肉体的食人行為としてではなく、精神的浸食行為のメタファーとして考察し、Typee族の「他者性」によって「自己」が内面から侵食されるTommoの引き裂かれた状態を明らかにしたい。


高橋  愛 徳山工業高等専門学校


Herman Melvilleの作品には、ジェンダー規範の枠には収まらない自己の有り様を構築しようとする人物が登場する。そうした者の試みでは、名前の専有と呼びかけが重要な役割を果たす。名前が自己の有り様に及ぼす影響は、Tommoと名乗るTypeeの語り手、Pierre の主人公Pierre Glendinningの姿などからうかがえる。これらの青年とは対照的にThe Confidence-Man では、偽装を通して自己の固定化を徹底して避ける人物が登場する。向き合い方に差はあるが、Melvilleの作品では、自己を規定する発話が登場人物の自己の有り様に影響を及ぼすことが少なくない。

しかしMelvilleの作品には、名前の専有や呼びかけの効果に無頓着で、自己の有り様が定まらない人物を主人公とするものがある。Israel Potter である。この作品では、自由を求めて独立戦争に身を投じるも、偶然に翻弄されて転落し、結局は貧困という不自由に絡め取られる男Israel Potterの生涯が描かれている。Israelは、Benjamin FranklinとJohn Paul Jonesという、アメリカの独立に関与した英雄として歴史に名を残す人物と関わりその薫陶を受ける。理想に合わせて自己を鍛錬しているという点で、いわば、近代アメリカ社会が理想とする「独立独行の男らしさ」を地でいくという点で、FranklinとJonesには相通じる部分があるが、Israelは前者には蒙を啓かれず後者に傾倒している。また彼は、独立独行型の英雄たちと異なり、かくあれかしと望む自己の有り様をその名前と共に提示することはない。彼は常に受動的で、偶発的な出来事に流されている。

本発表では、まずFranklinやJonesが提示する自己像を確認する。そのうえで、そうした自己像に対してIsraelが示す反応から、彼がどのような自己の有り様を求めていたかを考えていく。さらに、英雄との邂逅といった節目を迎えるや彼が身元を偽らざるを得ない状況に追い込まれること、また、この作品がジェンダー規範の転換が起こる戦争を背景にしていることに着目し、50年にわたる「冒険」に満ちた「流浪」のすえにIsraelがたどり着いた自己の有り様とはどのようなものであるか考察したい。