1. ドライサーとポー

ドライサーとポー

東洋大学 村山 淳彦


ドライサーとポーとの関連性とか類似とかの話題は,想定外や意外性に頼ったあざとい受け狙いにすぎないと思われる向きもあろうが,それがそうとも言いきれないということについては,近年いくつかの機会にささやかな形ではあれ,書いたり,しゃべったりさせていただいたので,ドライサーがポーへの私淑を何度も表明し,ポーの手法を意識的に取り入れたこと,とりわけ人格の多重化や異常心理の描写にポーに学んだ形跡が認められること,「超自然的な事柄」を扱うドライサーの戯曲にポー的な表現主義があらわれること,ともにフラヌール的な審美主義者のスタンスを衒うことなど,そのあたりのところぐらいはこのシンポジウムにご出席の方々には一応了解されていると,僭越にも前提させていただき,さて,それではこれまで紹介してきた両者の類縁性以上に,今回のシンポの席で語るべき話題がまだ残っているのかとなれば,文章に書くのとちがって,シンポジウムなどという場において口頭で語るにふさわしいかどうかはさておき,ここは思い切って両者の宇宙論とか思想などといった次元に相渉ってみようかなどと,あられもない方向へついおびき出されてしまうような気がしている。ドライサーもポーも,あたかも作家経歴の究極の目標が宇宙論の構築にあったかのごとく,それぞれ晩年に近づくにつれて宇宙論の執筆にとりつかれたという事実は,ある程度知られているにしても,いずれも宇宙論というにはあまりにも邪道の著作を遺したことについては,まあ,宇宙論とはどんな場合でも所詮トンデモ本にならざるをえないと言ってしまえば,それぞれの宇宙論は一見宇宙論でないように見えて実は宇宙論本来のあり方を呈していると見なすこともできよう。とにかく,ドライサーもポーも妙ちくりんな宇宙論を書いたというだけで,両者の関連は浮かび上がるはずだけれども,それを指摘するだけではあまり納得を得られまいから,それぞれの宇宙論の内容に多少は立ち入って比較検討することにより,この類似性からもう少し何が言えるか考えてみたいと思っている。