1. 4.Tree of Smoke とGran Torino ――JohnsonとEastwoodが描くベトナム戦争とその後

4.Tree of Smoke とGran Torino ――JohnsonとEastwoodが描くベトナム戦争とその後

麻生 享志 早稲田大学


ベトナム戦争終結から四半世紀以上を経て,「ベトナム」をめぐる文学表現が大きく変化してきた。かつてアメリカ文学における「ベトナム」といえば戦争文学を意味し,白人男性作家が描く「現実離れ」した「悪夢のような」体験がそのほとんどを占めていた(The Cambridge History of American Literature )。しかし,Lan Cao,Andrew X. Phamらいわゆる「1.5世代」移民が頭角を現しはじめた1990年代後半以降,多文化主義的色彩の強い作品が主流になってきている。ここ数年は北ベトナムの文学・芸術にも大きな関心が寄せられるようになり,戦時中ベトコン兵らが描き著したスケッチや物語が相次いで出版されている〔Last Night I Dreamed of Peace (2007), Mekong Diaries (2008) 〕。

このようにすっかり様変わりした「ベトナム」文学に新たに加わったのが,2007年全米図書賞の栄誉に輝く Denis Johnson の Tree of Smoke とClint Eastwood のGran Torino (2008) である。Tree of Smoke は白人男性作家の視点から改めてベトナム戦争をとらえなおす大作で,CIAの諜報活動と従軍兵士を中心とする二つの異なる物語から成る。Francis Coppola や Tim O’Brien が描ききれなかったベトナム戦争の裏面を表現するものだ。一方,Gran Torino はかつて朝鮮戦争に従軍した白人退役兵と隣家に越してきたベトナム人家族の人間関係を描写する。Cao の Monkey Bridge (1997) が「1.5世代」少女の視点から退役兵と移民の関係をとらえていたのと好対照をなす映像作品である。

それにしても,今なぜ「ベトナム」なのか。ベトナムをはじめフィリピン,シンガポールと東南アジアを舞台にするTree of Smoke がアメリカ覇権主義の功罪をグローバルな視野で再解釈するのなら,Gran Torino は同じ現象を内側から見つめ直す。但し,キリスト教的救済を求める筋立てを共有する両作品が,楽園の喪失と償いというアメリカ白人文化の自己愛的予定調和に陥っていることも指摘すべき点である。

Richard Gray は9/11以降の文学をとりあげ,20世紀後半のアメリカ文学が培ってきた多民族・多文化的傾向が後退していることに疑問を付した〔“Open Doors, Closed Minds” (2009)〕。これを受け,Michael Rothberg はグローバル化する社会・文化や多様化する人々の生活様式(市民権や公民権のあり方等)を映し出す文学表現の必要性に言及している〔“A Failure of the Imagination” (forthcoming)〕。本発表では,JohnsonとEastwoodがこうした時代の要請に応えているか否かを批判的に検証しつつ,今後の「ベトナム」文化・文学の行方を占いたい。