1. シンポジアムT(東京支部発題)(11号館5階1151教室)

シンポジアムT(東京支部発題)(11号館5階1151教室)

Is Mark Twain Dead?――マーク・トウェインの文学的遺産

司会・ 講師
早稲田大学 石原  剛
マーク・トウェインの文学「史」的遺産
講師
東京大学 諏訪部浩一
Isaac McCaslinとSam Fathers――Twainの後継者としてのFaulkner
九州大学 高野 泰志
トウェインとヘミングウェイ,ハックとニック
日本学術振興会 永野 文香
闖入する作者――ヴォネガットのストレンジャーたちをめぐって
金沢大学 結城 正美
「ハムと卵と風景」――トウェインの食の風景をエコクリティカルに読む
コメンテーター
島根大学名誉教授 トウェイン協会会長 市川 博彬



「アメリカの近代文学はすべてマーク・トウェインの『ハックルベリー・フィン』という一冊の本から出発している。」少々使い古された感もあるヘミングウェイの有名な言葉だが,アメリカ文学の源流にトウェイン文学が厳然と存在していることは多くの作家や研究者が認めるところ。しかし,「トウェインの文学的遺産」といったとき,その意味はトウェイン文学の手法やテーマに霊感を受けるといった実際的な影響関係にとどまらない。20世紀のアメリカ文学者たちが掘り下げた様々なテーマや手法が,「源泉」とは別のレベルでトウェイン文学に予期せず表出しているといったことは,彼の作品を読む者がしばしば経験する喜びだ。とはいえ,トウェイン文学に視野を限定していては,他作家や多様な文学ジャンルとトウェイン文学の有機的関係はなかなか見えてこない。そこで,本シンポジウムでは,フォークナー,ヘミングウェイ,ヴォネガット,環境文学といったトウェイン以外のアメリカ作家や近年注目を浴びている文学ジャンルを専門とする若手の研究者に集まってもらい,トウェインが織りなす文学世界の一端を他作家やジャンルとの関係に注目しつつ掘り下げてもらう。特に,従来の比較文学的な影響関係といったものに限定されず,テーマの符合,類似や相違などといった視点から,創造的な比較論を展開していきたい。各報告を聞いていただいた方々には,本シンポジウムのテーマ“Is Mark Twain Dead?”という問いかけの答えがやはり“・・・”とはなり得ないことを納得していただけることと思う。


(文責 石原)



早稲田大学 石原  剛


文学史はいかなる評価をトウェインに与えてきたのか?本発表では,この素朴な問いに時間の許す限り答えていきたい。論じる対象は20〜21世紀にアメリカで出版された以下の文学史を予定している。William P. Trent他編The Cambridge History of American Literature(1917年),Robert E. Spiller他編Literary History of the United States (1949年),Emory Elliot編Columbia Literary History of the United States (1988年),Sacvan Bercovitch編The Cambridge History of American Literature (2005年)。この4つの文学史を並べて明らかな事は,トウェイン紹介の比重は時代を追うごとに徐々に低くなっているとはいえ,マーク・トウェインがほぼ1世紀に亘りアメリカ文学史における主要な地位を確保してきたことだ。このことは,切り口は異なるものの,いずれの文学史にもほぼ通底しているトウェイン文学への積極的評価や,Bercovitch編を除いた全ての文学史が独立章を設けてトウェインを紹介していることなどからも明らかである。

ただし,積極的評価という共通点があるとはいえ,こと評価の力点となると各文学史でかなり様相を異にする。旅行記か小説か?ミシシッピー川を舞台にした自伝的作品かヨーロッパを舞台にした歴史ロマンスか?20世紀に正典化された『ハック・フィン』の評価とそのエンディングの扱いは?晩年作品をペシミズムの表れととるか否か?本発表では,こういった各文学史におけるトウェイン評価の変遷の意味するところを,同時代の批評状況やトウェイン研究の進展,さらには文学史の編者や執筆者の批評スタンスに言及しつつ考えてみたい。

また,時間が許せば,主要文学史とアメリカで使用されている中学・高校の教科書を比較することで,文学史におけるトウェイン評価の相対化も試みたい。トウェインが自分の作品を誰もが飲む「水」にたとえたことは有名だが,権威筋の主要文学史の評価が必ずしも巷のトウェイン観を反映するものではないことも併せて確認できればと考えている。

最終的には,本シンポジウムのテーマである20世紀以降の作家や文学ジャンルとトウェインに関する各発表者の報告を同時代のトウェイン評価の流れと結びつけることで,トウェインの文学的遺産に関する一つの見取り図を提供したい。


東京大学 諏訪部浩一


William FaulknerはいくつかのインタヴューでMark Twainに言及し,あるときには好きな小説のキャラクターとしてHuck FinnとJimをあげている。そこでTom Sawyerのことはあまり好きではないとわざわざ付言していることをふまえてみるとなおさらのことだが,FaulknerがHuckとJimを「ペア」にして気に入っていたという事実は,先行作家への敬意がその「南部」的な文脈から切り離せないことを示唆するように思える。

Faulkner作品における白人少年と黒人の「ペア」としては,Intruder in the Dust のCharles MallisonとLucas BeauchampがAdventures of Huckleberry Finn に触れながら考察されることが多いのだが,ここではむしろGo Down, Moses におけるIsaac (Ike) McCaslinとSam Fathersの関係について考えてみたい。Samという人物は,Ikeを「神話」的世界へと誘う精神的「父」としての「インディアン」としばしば見なされてきたが,南部的「現実」においては,4分の1混血の黒人奴隷女性を母に持つ彼は,何よりもまず「黒人」のはずである。だとすれば,Samを「インディアン化」して神話的文脈に据えてしまうのは,奴隷制/人種差別という南部の現実を抑圧隠蔽する態度になりかねないのではないだろうか。そして本発表においては,他ならぬIkeこそがそうした態度を取ることを確認していきたいと思う。

そのような作業をおこなうための有益な「参照枠」となるように思われるのは,The Adventures of Tom Sawyer からHuck Finn にかけて作家Twainが出会ってしまった「現実」である。Injun Joeという「インディアン」には,Tomの冒険を普遍的=非歴史的な「少年文学」とする役割が課されているのに対し,Huckの冒険が「リアリズム文学」の嚆矢と見なされる理由の1つが「黒人」Jimの存在にあることは疑いない。もちろんHuckにおいても,Tomが出てくることでJimはステレオタイプ化され,作品は「少年文学」として強引に幕が引かれることになるが,それでもHuckがJimという<他者>と出会ったという事実は消えない。まさしくHuck の結末が小説的には破綻しているところに,Twainが邂逅した「現実」を見ることは可能なはずである。

Faulknerは別のインタヴューにおいて,Twainの書いたものは「小説」ではないと述べている。この発言を詳しく検討する余裕はないかもしれないが,Twainが出会った「現実」を後発作家Faulknerは「小説」としてドラマタイズしていると論じることで,Faulknerを「Twainの文学的遺産」の正統な継承者として考えてみたい。


九州大学 高野 泰志


現代アメリカ文学はトウェインの『ハックルベリー・フィンの冒険』で始まるのだというヘミングウェイの言葉はあまりにも有名である。この言葉は自身のサファリ旅行を題材にしたエッセイ『アフリカの緑の丘』に表れるが,同じ箇所でヘミングウェイは,『ハックルベリー・フィン』以前も以後も,それより優れた作品は書かれていないという最大級の賛辞をトウェインに送っている。ヘミングウェイ自身がトウェインの影響をはっきりと認めていることからも分かるように,これまでもふたりの影響関係に関しては,当然のこととして言及されてきた。実際,文体的にも,テーマ的にも,伝記的にも,ふたりの共通点は枚挙にいとまがない。

本発表では,トウェインの作品の中からハックルベリー・フィンの登場する一連の作品と,ヘミングウェイのニック・アダムズ物語を比較する。ハックルベリー・フィンは文明の軛から逃れ,荒野に逃亡する自然児として,ヘミングウェイの言うようにアメリカ文学を代表する登場人物である。一方,ニック・アダムズはヘミングウェイの半自伝的登場人物として,作家の生涯全体にわたって断続的に書き継がれていた人物である。

これまでもふたりの人物像に関してはしばしばその類似点が指摘されてきたが,時代的にも地理的にも大きく異なる両作家の代表的登場人物であるハックとニックを併置することで,表面的な類似点の指摘にとどまらない,本質的な影響関係を改めて検討してみたい。


日本学術振興会 永野 文香


「現代のトウェイン」と呼ばれたカート・ヴォネガット(1922-2007)は折りに触れマーク・トウェインへの敬意を表明してきた。たしかにテクノロジーや戦争に対する姿勢,人間機械論,さらに運命論と自由意志の問題など,両者のテーマ上の共通点は多くの批評家が指摘する通りだが,ヴォネガット本人がもっとも高く評価したのは,トウェイン作品のまんなかに作者がいるということ,すなわち「作品」「作者」「読者」の親密な関係性である。実際,彼が講演やインタビューにかなりの時間を割き,熱烈な読者共同体を生み出していったのも,こうしたトウェイン観に基づいてのことであった。つまり,ヴォネガットにとってトウェインはもはや作家としてのスタイルを決定する準拠枠になっていたのであり,だからこそ,トウェインについて語る言葉は彼自身について多くのことを物語るのではないか。

以上のような問題意識から,本発表では1960年代以降の作品に繰り返し登場する「作者ヴォネガット」というモチーフに注目し,作品内世界と作品外世界を架橋する作家の存在について考察してみたい。生前,トウェインの影響を訊ねられたヴォネガットは,トウェインと自分の共通点はともに不可知論者であることと,「大きな戦争で敵方にいた経験があること」だと述べている。こうして,ヴォネガットのナチス・ドイツはトウェインの南部へ重ね合わされ,戦後,「敵方にいた」体験を書く難しさもまた,トウェイン経由で再確認されている。では,その難しさに直面したとき,逆説的に「作者ヴォネガット」が作品に呼び込まれた必然性とは何だったのか。それはヴォネガットのトウェイン理解とどう関わるのだろうか。ドレスデン爆撃に関する歴史的研究や最新の伝記資料を参照しながら,Mother Night (1961; 1966) や Slaughterhouse-Five (1969) 以降の作品を再読し,ヴォネガットにおける「作品」「作者」「読者」の関係性を再検証したい。そして,その延長線上にヴォネガットが晩年熱心に取り組んだ講演活動や時事エッセイを位置づけることで,この「国のない男」がトウェインに学んだ(と主張する)「作家の倫理的責任」を明らかにできればと考えている。


金沢大学 結城 正美


旅行記をはじめとするトウェインの作品には食の描写が少なくない。なかでも,A Tramp Abroad (1880)において,ヨーロッパ旅行で現地の食事に辟易したトウェインが作った70余に及ぶ食べたい物のリスト――ラディッシュ,カキフライ,アメリカンコーヒー・本物のクリーム付き,アメリカンバター,フライドチキン南部風,ボストンベーコン&ビーンズ,シェラネヴァダのカワマス,ミシシッピのブラックバス,アメリカンローストビーフ,レタス,サヤインゲン,アップルパイ等々――は,食におけるアメリカの独立宣言と目されるほどよく知られたものである。現代アメリカ文学の源と絶賛された作品の書き手として名高いトウェインは,食の分野においてもアメリカンアイデンティティの構築に深く関与しているのであろうか。そのような食とアメリカ性をめぐる問題も含めて,本報告ではトウェインの描く食の風景をエコクリティシズムの見地から検討する。

食というテーマは,食べ物や食べるという行為がもつ文化的象徴,生態学的役割,コミュニケーション機能といった多様な問題群へのアプローチを要するものである。トウェインの作品には,風景描写に食が介在する場面が散見されるが,そこに書き手の,そして当時のアメリカ社会のどのような環境観が読み取れるのだろうか。Roughing It (1872)において,だいたいはグレートベイスンの荒野の単調さに悪態をつく語り手が,「グレートソルトレイクシティ」近辺に広がる山と谷のパノラマをハムと卵を食べながら眺める場面に幸福感を描き込んでいるのはどうしてなのか。風景を見る主体の形成にハムと卵はどのように関わるのであろうか。また,この旅行記が出版された同年に,大自然アメリカを象徴する国立公園の第一号がイエローストーン峡谷に設けられたが,西部をめぐるトウェインの食/風景描写と当時の環境言説やナショナルアイデンティティとの関連はいかなるものなのか。たとえばそのような問題を糸口として,トウェインの描く食の風景を多角的に検討し,トウェイン作品とアメリカ環境言説との関連に迫りたい。