1. 第9室(11号館 7階 1172教室)

第9室(11号館 7階 1172教室)

開始時刻
1. 午後2時00分 2. 午後2時55分
3. 午後3時50分 4. 午後4時45分(終了5時30分)
司会 内容
黒田絵美子

1.Gem of the Ocean における中間航路

  江戸 智美 : 大阪大学(院)

2.黒い創世記の語り部――August Wilsonの芸術と創造性

  森  瑞樹 : 大阪大学(院)

藤田 淳志

3.Two Trains Running に見るアフリカ系アメリカ人の男と女

  穴田 理枝 : 大阪大学(院)

4.ページェントとしての“The Red Letter Plays”

  谷林眞理子 : 川村学園女子大学



江戸 智美 大阪大学(院)


August Wilsonのサイクル劇で,時系列上,最初に位置するGem of the Ocean (2003)は,「中間航路」のイメージを舞台に展開し,過去の人種的記憶を蘇らせる。20世紀初頭(1904年)に時代設定された本作品では,他のWilson作品に見られる家族,地域コミュニティといったアフリカ系アメリカ人共同体の明確な姿はまだ現れていない。そのような環境では,アメリカの地で生まれ,育った世代にとって,アフリカ文化の継承は容易ではない。過去・歴史を知る必要性を主張するWilsonは,サイクル劇全体にとって重要な位置を占めるAunt Esterを,黒人が新大陸に連れて来られた年に誕生したと設定し,歴史の語り部としての役割を与えている。Aunt Esterが誘うCity of Bonesへの旅は,過去を知らない世代に,祖先の辿った運命を疑似体験させる幻想の旅である。

救いを求めてAunt Esterを訪れたCitizenは,彼女の指示に従い,想像の世界で中間航路の航海を体験する。そこに立ち上がる未知の過去を髣髴させるイメージは,彼に既知の人種的記憶として受容される。また,この“Middle Passage”疑似体験は,Citizenにとっての通過儀礼 “rite of passage”となり,彼は文字通り「市民」として再生する。そして,同じ儀式を過去に経験したEli,Solly,Black Maryらと人種の記憶を共有し,彼らとともに記憶の共同体を形成する。注目すべきは,彼らが特定の場所・土地を媒介として共有すべきものを見出したわけではないということである。Aunt EsterがCitizenに伝えたのは,大洋に沈んだ祖先たちの辿った経路(routes)である。そして今,Citizenもまたその経路を辿って,自らの人生へと踏み出す。起源/ルーツ(roots)ではなく,ルート(routes)に焦点を合わせることで,過去への遡及ばかりに目を奪われがちなアイデンティティ追求の衝動を,現時点から未来へと向かうベクトルに転換しうる可能性が生まれる。

それは,Wilsonが動かぬ大陸の代わりに,自在に時空を超えて移動する音楽をアイデンティティの源に置こうとしていることとも通じる。Wilsonのサイクル劇の中で音楽が重要な要素であることはよく知られる。本作品でも子守唄が母親や過去の記憶を象徴する。子守唄のように世代を越えて伝えられてゆく文化の継承態様は,音楽の通時的側面の表れと言える。さらに,もう一つの音楽の側面,共有という共時的側面を用いることでコミュニティの形成が可能となる。

本発表では,中間航路の疑似体験という通過儀礼を経て一市民となったCitizenが,「アフリカン」としてのアイデンティティのみならず,「アメリカン」としてのアイデンティティを獲得し,共同体を形成する一員となるプロセスとその意味を提示する。また,本作品におけるカナダの “civilized people”への言及に注目し,Wilsonが観客そしてアメリカという国家に突きつけた問いについて考察する。


森  瑞樹 大阪大学(院)


August Wilsonは, “Pittsburg Cycle”としてアフリカ系アメリカ人の20世紀を10年単位の全10作で作品化した。しかし,「壮大な歴史絵巻」と謳われながらも,Wilsonのサイクル劇構想の根底にあったものは, 歴史的事実を詳細に綴ることではない。例えばFences (1985)での「天国の扉」やJoe Turner’s Come and Gone (1987)での「肉体を再生させる白骨」等,バロック芸術を彷彿とさせる叙事的幻想表現や,観客の視覚的想像力を喚起させるSF的表現を織り交ぜながら,サイクル劇は展開してゆく。このような史実とは乖離するフィクション性がサイクル劇において強調される所以は,Wilsonが,歴史以上に文化,芸術に強い関心を示し,60年代の黒人芸術運動の“Black is Beautiful”というテーゼの表現に尽力したところによるものが大きい。そしてこれら想像的表現は,先行研究の多くで,アフリカ系アメリカ人のアイデンティティやコミュニティ概念と結びつけられて論じられてきた。

そこで本発表では,アイデンティティ論を展開した先行研究を踏まえ,黒人芸術運動に基づくWilsonの理念と劇作を1つの文化表象として理解し,サイクル劇,ひいてはアフリカ系アメリカ人文学のさらなる可能性を追求する。

検証すべき問題の核となる点は大きく区分すると,(1)Wilsonがその芸術=演劇に求めたもの,(2)その目的遂行のための戦略,以上2点である。1つめは,芸術創造の源泉となる価値体系を作り上げることは叶うのか,という問題について。つまり,ルネサンス,バロック以前からの絵画や音楽等の伝統的西洋芸術に底流している価値体系を生み出した聖書に換わるべきものを,20世紀以降のアフリカ系アメリカ人が作り上げることは可能か,という疑問である。そして2つめはWilsonの芸術性追求の戦略についてである。現代アメリカの資本主義社会の渦中,「個人の情動の発露」でもあるサイクル劇において,アフリカ系アメリカ人の価値体系=原風景/原体験を如何に表現するのか。この現代芸術と資本主義の戦略的関係性を考察する。

これまでのアフリカ系アメリカ人文学は,「対白人という転覆的/政治的メッセージの発信」,もしくは「極めて道徳的な融和理念の教示」というように二極化しがちであった。上記の問題を検証してゆく過程で,他のアフリカ系アメリカ人の作家が実践してきた「メッセージ性の追求」とは異なる「現代的芸術性の追求」というWilsonの方法論的転回を検証する。そしてその方法論的転回に,従来のアフリカ系アメリカ人文学の保守的構造を打破する力,またアフリカ系アメリカ人を新たな合衆国の文化的コンテクストに位置付ける力が潜在していることを明らかにする。扱う作品は,1900年代と1990年代という20世紀の始めと終りを描き,Wilson自身がサイクル劇の「ブックエンドの両端」と呼んだ,最終2作Gem of the Ocean (2003)とRadio Golf (2005)が中心になるだろう。


穴田 理枝 大阪大学(院)


これまでしばしばAugust Wilsonの演劇作品は黒人男性の視点で描かれ,女性は周縁に置かれたままであると非難されてきた。しかし周縁化された黒人男性の更に周縁に黒人女性が置かれたままであるという舞台設定の中でこそ,その2重の周縁化そのものの持つ意味が前景化されるという議論もある。1969年という時代設定のTwo Trains Running は,August Wilsonのサイクル劇の中でも女性の登場が特に少ない作品である。舞台に登場する唯一の女性であるレストランの従業員Risa,舞台には登場しないが重要な役割を占めるAunt Ester,またはそれぞれの妻や母についての男達の発言に注目し,黒人女性の周縁性がどのように表現されているかをふまえつつ,女性史的視点からアフリカ系アメリカ人の男女関係について論じる。

白人の築いたジェンダー規範のもと,奴隷としてさらにその規範の外に置かれてきたアフリカ系アメリカ人の男性は,それ故に,男性性=白人男性性という認識を強く刷り込まれ,家父長制による家庭の「大黒柱」として生きることこそが白人男性とも対等に生きることであるとの意識を持つことになった。折しも舞台は1960年代,公民権運動とともに第二波フェミニズム運動が広がりを見せた時代,このような男性支配に反発した女性達が結婚,家族,異性間の性関係に異議申し立てをする。黒人女性にとって,市民権を得ることは人種・ジェンダー規範の両方により縛られてきた生き方から開放されるというより大きな意味をもつ。この男女の認識の差異が両者のすれ違いを産む。

「母親崇拝」の言説に縛られ自己犠牲に基づいた母親像を演じることは,黒人女性が自ら選択し,意志決定したものではない。しかし「母親崇拝」の言説を内包する家父長制の枠内での「大黒柱」を目指す黒人男性にとっては黒人女性自身が生き方を選択し,意志決定するということなど思いも及ばない。その一方で黒人男性自身も「母親崇拝」の呪縛にとらわれ,母親からの開放を求めてもいる。お互いにジェンダー・ロールに縛られてがんじがらめになった家族関係から抜け出すには,逃走かまたは死しかない。

肉体的に早熟であった為に早くから男達の視線にさらされたRisaは両脚にカミソリで傷をつける。彼女はその傷を男達の目にさらすことによって,彼らのもつジェンダー規範に対しNoをつきつけている。また,店に集う男達に積極的に関わろうとしないRisa は男達を客観的に見るアウトサイダーでもある。そしてRisaがレストランの男達にとってのアウトサイダーであるなら,彼らの悩みを聞くAunt Esterはピッツバーグの黒人居住区のアウトサイダーである。しかも322歳であるという彼女は時空を越えたアウトサイダーとして,街のアフリカ系アメリカ人を観察し続ける人物であるということになる。

本作品においては,黒人女性達は単に核心から遠ざけられているのではなく,時代の流れを周縁から見守る役割を担っているとも考えられる。このような物語構造にも注目し,男女それぞれの眼差しにどれほどの視差があるのか,その視差が生み出すものは何なのかを中心にAugust Wilsonの他作品も参照しつつ探る。


谷林眞理子 川村学園女子大学


Top Dog / Under Dog により,2001年にアフリカ系アメリカ人女性劇作家初のピュリッツアー賞を受賞したSuzan-Lori Parksは,歴史上の人物を題材にし,作品を通じて黒人の歴史を「掘り起こし」,ジャズ演奏にならってひとつのモチーフを「反復・修正」し,作品を作り上げてきた。1989年初演,そのシーズンのオービー賞を受賞したImperceptible Mutabilities in the Third Kingdom では,記号と象徴を反復させながら,アメリカにおける黒人の歴史を多面的に描いている。1994年初演のThe America Play では「歴史の偉大な穴」というテーマパークのレプリカであるパーク内で,リンカーン大統領にそっくりの黒人男性が大統領暗殺ショーに出演し,客に撃たれて暗殺場面を再現する。1996年初演,2度目のオービー賞を受賞したVenus は,19世紀初頭に臀部の突き出たその身体的特徴から,イギリスで有名になったVenue Hottentottを主人公に,彼女が見世物小屋のスターから医師の愛人となってフランスにパリにわたり,死後その身体がホルマリン漬けになって展示されたことが語られる。そしてNathaniel Hawthorne作The Scarlet Letter の‘riff’(ジャズの反復即興演奏)のような作品として書かれたのが,二人の黒人女性Hesterを主人公としたIn the Blood とFucking A である。前者は生活保護を受けながら父親の違う5人の子供を育てるHester, La Negritaが,後者は,闇の堕胎を生業とし,その職業‘Abortionist’を表すAの焼印を胸に押されたHester Smithが主人公である。いずれも母親による子殺しという血にまみれた結末のこの2作品は,出版されたときに“The Red Letter Plays”(「赤い文字の劇」)というタイトルがつけられた。

In the Blood のプロローグでは,原作の‘The Market Place’を想起させるように登場人物たちが赤ん坊を抱えたHesterを囲み,彼らのコーラスによって観客はHesterの生い立ちを知る。またFucking A のHesterの住居には,堕胎という汚穢の浄化を行うかのようにろうそくのともされた祭壇がおかれている。19のシーンからなるこの作品には「働く女の歌」や「わたしの復讐」のような歌が挿入され,女性同士の性的会話や性的言及はTALKというドイツ語に似た外国語が使われ,その英訳が字幕に映しだされる。

学生時代にJames Baldwinに師事し,Samuel Beckett, Gertrude Stein, William Faulknerなどのモダニズムの作家から影響を受けたというParksは,60年代に父親の仕事の関係で学齢期をドイツで過ごし,直接的な人種差別体験を持たない。彼女が過ごしたドイツの町では10年ごとに宗教的なページェントが行われたというが,Parksはインタビューで,自分の劇は共同体に呼び掛けてページェントを催すようなことだと語っている。2006年から7年にかけて全米各地で上演された365 Days/365 Plays は彼女の作品の集大成である。Parksは瞑想・儀礼として毎日一作ずつ劇を書き,彼女の個人的な行為がインターネットを通じて集団的行為に変換するというまさに教会のような機能を果たしたという。

本発表では,“The Red Letter Plays”2作の分析を通じて,Parksが別の作品についても言及しているように,これらの作品がコロニアリズムでもフェミニズムでもなく,共同体の祝祭と同時に汚穢の浄化のためのページェントとしてアメリカ古典の書き直しに成功したことについて考察する。