1. 第8室(11号館 7階 1171教室)

第8室(11号館 7階 1171教室)

開始時刻
1. 午後2時00分 2. 午後2時55分
3. 午後3時50分 4. 午後4時45分(終了5時30分)
司会 内容
町田 哲司

1.思想教育と文学の政治学――GHQ/SCAPの日本民主化政策とアメリカ西部フロンティア言説の関係性――

  鈴木 紀子 : 筑波大学(準研究員)

2.Star Trek の中のアメリカ――「無限の多様性」と「信憑性」――

  川口 雅也 : 浜松学院大学

的場いづみ

3.歴史の反映か構築か――80年代のヴェトナム戦争映画における記憶のポリティクス

  大勝 裕史 : 早稲田大学(院)

4.Tree of Smoke とGran Torino ――JohnsonとEastwoodが描くベトナム戦争とその後

  麻生 享志 : 早稲田大学



鈴木 紀子 筑波大学(準研究員)


第二次世界大戦後,連合国軍最高司令官総司令部(General Headquarters, Supreme Commander for the Allied Powers)(以下GHQ/SCAPと略す)が行った日本民主化政策は多岐に渡る。教育基本法制定による教育制度改革,労働組合の結成奨励,財閥解体,女性参政権付与など,政策は広範囲に及ぶ。その中でも,GHQ/SCAPが民主化教育材料に外国文学を利用した事実は,思想教育と文学の政治学を考える上で極めて興味深い。GHQ/SCAPは自ら行った厳密な検閲体制の下,外国文学,とりわけアメリカ文学作品の翻訳・出版を推進し,一般大衆のアメリカ文学の読書奨励を積極的に行った。その目的は,アメリカの文学を通して,占領下日本にアメリカが理想とする民主主義理念を啓蒙する為であったとされている。

アメリカ文学作品と,民主主義理念の移植はどのように結び付いたのだろうか。この問題を考える上で注目に値するのは,GHQ/SCAPが選奨したアメリカ文学の作品群の一部を,一九世紀西部開拓時代の西部フロンティア,または開拓生活を描いた作品―ここでは「西部文学」と呼ぶ―が特徴的に占めていたという,あまり知られていない事実である。それはGHQ/SCAP選抜作品だけでなく,GHQ/SCAPの要請により本国から派遣されたアメリカ教育使節団が日本に「本の贈り物(Gift of Books)」として送った図書の選別にも言える。また図書のみならず,民主化教育材料として広く日本に紹介されたアメリカ国務省製作のアメリカ映画作品の中にも,特徴的に西部フロンティアを題材とした作品が含まれていた。

本論文は,これまで注目されてこなかった占領政策と西部フロンティア言説,翻訳図書の関係を浮き彫りにし,西部文学が表象する西部言説がGHQ/SCAPの民主主義理念移植の媒体として利用された事実を明らかにする。しかし,それは日本側が受動的にアメリカの理念を受容したことを意味しない。日本人独自の文化的視野は,本論文が明らかにするように,西部フロンティアを憧憬と羨望の対象としての理想的空間と言うよりも,日本人の共感を呼び起こす空間へと意味変容,土着化させていく。この事実を通して,日米間の民主主義の移植と受容の齟齬を明らかにしつつ,GHQ/SCAP戦後日本民主化の「成功」を疑問に付し,占領政策における思想教育と文学の政治学の複雑性を考察する。


川口 雅也 浜松学院大学


テレビ・シリーズStar Trek (1966- )の根幹をなすのは,原作者Gene Roddenberry(1921-91)による”infinite diversity in infinite combinations”という視点であり,そこから展開される世界は,様々な惑星の様々な種族が,種族間の紛争を乗り越え,平和に共存しようとする23・24世紀の未来の宇宙である。Star Trek は6つのテレビ・シリーズ,11本の劇場版映画からなる壮大な世界を形成しており,そのエピソード数は700を越えるのだが,その製作にあたって,原作者Roddenberryによる詳細な決まりがあり,どの作品も,その決まりから大きく外れることはなく,彼の没後も後継者たちによって,一貫してRoddenberryの世界観が反映されている。

このテレビ・シリーズが米国だけにとどまらず,世界各地で45年近くに渡って支持され続けているのも,その楽観的な未来像に起因していると考えられる。しかし,その楽観的な世界観と,sci-fiという特殊撮影等の表面的な部分のみが注目されやすい形態ゆえに,内容に触れる前から,Star Trek を単なる現実逃避とみなしてしまう人々が多いのも,また事実である。本発表では,そうした認識を改めるべく,“Believability is Everything.”というRoddenberryの創作姿勢に注意を払いながら,そのテレビ・シリーズを現代社会の暗喩として捉え,文学的に考察したい。米国の負の歴史に言及したエピソードをとりあげることで,それらが現実の問題から目をそむけず,実際の人間・社会を描こうとした文学的価値を有するものであることを示すことができればと考えている。

テクノロジーがもたらす明るい未来という世界観でStar Trek は創作されているが,“Journey’s End”(1994)では,Hopi族を思わせる先住民族の,テクノロジーとは無縁の生活様式が敬意をもって描かれており,そこには二項対立ではない思考法が読みとれる。“Jetrel”(1995)という広島を思わせる作品においては,原爆に類似した兵器を発明したOppenheimerを想起させる科学者と,その兵器によって故郷を破壊された者が,顔を付き合わせ,両者の言い分をぶつけ合う様子が描かれ,誰かを裁くという姿勢ではなく,両者の人生を丁寧に描写しようという意思が感じとれる。“Far Beyond the Stars”(1998)では,24世紀の未来の宇宙から,人種差別が根強く残る1950年代の過去の米国へ,アフリカ系アメリカ人の作中人物が時空移動し,過去と未来,現実と夢,それらの境界が曖昧な形で,King牧師のメッセージを彷彿させつつ,物語りが綴られていく。これらの作品を,Roddenberryの「無限の多様性」という視点,および,「信憑性」を重視する創作姿勢とともに,考察していきたい。


大勝 裕史 早稲田大学(院)


その影響が消滅したとは言えないとしても,ヴェトナム戦争は過ぎ去った出来事である。では現代に生きる人間は,歴史としてのヴェトナム戦争をいかにして知る,または記憶するのか。一つの視点として,歴史的な出来事に関する記憶は,体験者の個人的記憶によって共同体に伝達されるよりも,むしろ Marita Sturken が「記憶のテクノロジー」と呼ぶ映画,写真,記念碑などの文化的生産物によって構築されているだろう。すなわち,現在,文化的生産物は強い影響力を持つ歴史記述たりえている。

本発表の目的は,歴史記憶の構築という視点で,80年代中期からハリウッドで流行するヴェトナムの戦場を米兵の目線に接近して描写する「戦場リアリズム映画」(代表例は Platoon)を考察することにある。目下の論点は二つとなろう。第一に,なぜハリウッドはヴェトナム戦争から10年も経過した後で初めて,ヴェトナムの戦場を忠実に再現するような映画を生産するのか。第二に,「戦場リアリズム映画」は同時代の社会的,文化的な事象といかなる関連を持つのか。

ヴェトナム戦争映画を通時的に分析すると,時代ごとに固有の傾向が見出される。歴史としてのヴェトナム戦争が進行中もしくは終結する70年代後半まで,奇妙なことに,ハリウッドはヴェトナムの戦場を表象することを回避し,代わりにアメリカ国内で罪を犯す情緒不安定なヴェトナム帰還兵を描写してきた。しかし70年代後半からは,帰還兵が犠牲者として(典型例はDeer Hunter ),また逆に勇敢な戦士として(典型例はFirst Blood )表象され始める。これとほぼ同期して,ヴェトナムの戦場が帰還兵の想起内容として,主にフラッシュバックの手法で表象されるようになる。そして80年代中期以降は,物語の主軸となる時空じたいをヴェトナムの戦場に設定した「戦場リアリズム映画」が相当数登場してくる。このように80年代中期以降,ハリウッドは帰還兵の記憶をより直接的に表象することを志向したと言える。

文化的事象としては,1982年に Vietnam Veterans Memorial が建設され,1980年には,アメリカ精神医学会がDSM-III(『精神疾患の分類と診断の手引き』)を発行し,PTSD(心的外傷後ストレス障害)の概念を導入した。両者に共通するのは,帰還兵の保持する個人的記憶への関心だろう。というのも,記念碑は戦没者の魂,失われた記憶に思いを馳せる場所であり,PTSDは外傷的な記憶が帰還兵の身体に引き起こす症状であるのだから。


麻生 享志 早稲田大学


ベトナム戦争終結から四半世紀以上を経て,「ベトナム」をめぐる文学表現が大きく変化してきた。かつてアメリカ文学における「ベトナム」といえば戦争文学を意味し,白人男性作家が描く「現実離れ」した「悪夢のような」体験がそのほとんどを占めていた(The Cambridge History of American Literature )。しかし,Lan Cao,Andrew X. Phamらいわゆる「1.5世代」移民が頭角を現しはじめた1990年代後半以降,多文化主義的色彩の強い作品が主流になってきている。ここ数年は北ベトナムの文学・芸術にも大きな関心が寄せられるようになり,戦時中ベトコン兵らが描き著したスケッチや物語が相次いで出版されている〔Last Night I Dreamed of Peace (2007), Mekong Diaries (2008) 〕。

このようにすっかり様変わりした「ベトナム」文学に新たに加わったのが,2007年全米図書賞の栄誉に輝く Denis Johnson の Tree of Smoke とClint Eastwood のGran Torino (2008) である。Tree of Smoke は白人男性作家の視点から改めてベトナム戦争をとらえなおす大作で,CIAの諜報活動と従軍兵士を中心とする二つの異なる物語から成る。Francis Coppola や Tim O’Brien が描ききれなかったベトナム戦争の裏面を表現するものだ。一方,Gran Torino はかつて朝鮮戦争に従軍した白人退役兵と隣家に越してきたベトナム人家族の人間関係を描写する。Cao の Monkey Bridge (1997) が「1.5世代」少女の視点から退役兵と移民の関係をとらえていたのと好対照をなす映像作品である。

それにしても,今なぜ「ベトナム」なのか。ベトナムをはじめフィリピン,シンガポールと東南アジアを舞台にするTree of Smoke がアメリカ覇権主義の功罪をグローバルな視野で再解釈するのなら,Gran Torino は同じ現象を内側から見つめ直す。但し,キリスト教的救済を求める筋立てを共有する両作品が,楽園の喪失と償いというアメリカ白人文化の自己愛的予定調和に陥っていることも指摘すべき点である。

Richard Gray は9/11以降の文学をとりあげ,20世紀後半のアメリカ文学が培ってきた多民族・多文化的傾向が後退していることに疑問を付した〔“Open Doors, Closed Minds” (2009)〕。これを受け,Michael Rothberg はグローバル化する社会・文化や多様化する人々の生活様式(市民権や公民権のあり方等)を映し出す文学表現の必要性に言及している〔“A Failure of the Imagination” (forthcoming)〕。本発表では,JohnsonとEastwoodがこうした時代の要請に応えているか否かを批判的に検証しつつ,今後の「ベトナム」文化・文学の行方を占いたい。