1. 第7室(11号館 6階 1165教室)

第7室(11号館 6階 1165教室)

開始時刻
1. 午後2時00分 2. 午後2時55分
3. 午後3時50分 4. 午後4時45分(終了5時30分)
司会 内容
越川 芳明

1.抽象的過去への抵抗――Prisoner’s Dilemmaにおける物語行為の倫理

  岩橋 浩幸 : 大阪大学(院)

2.9.11への応答責任――Don DeLilloのFalling Man におけるテロリズムの乱反射

  川村 亜樹 : 愛知大学

都甲 幸治

3.Steven Millhauserの”Eisenheim, the Illusionist”にひそむ交錯する力

  新田よしみ : 福岡大学

4.“What comes after America?” Don DeLillo in the Wake of 9/11

  Taras A. Sak : 九州大学



岩橋 浩幸 大阪大学(院)


「語り直すことを決して止めてはならない」。Richard Powersの第二長編Prisoner’s Dilemma (1988) が発する教訓をこのように要約しても差し支えないだろう。そう要約できる理由は,「入れ子式構造」とも,「メビウスの輪」とも形容される物語構造が主人公Eddie Hobsonをめぐる絶えざる語り直しの産物だからである。しかしながら,そうした作品形式の目新しさゆえ,先行研究においては,物語構造の指摘に留まり,語り直し続けることが何故重要なのかはほとんど議論されてこなかった。この問いに答えることが本発表の目標だが,まずは,Hobsonが「過去を終わったと考えず,過去を抽象的なものに変えてしまうという選択肢を決して選ばなかった北半球最後の人間である」(PD 325) ことに着目し,「現在」という概念を持ち出すことから議論を始めたい。

抽象的過去とは,「現在」と切り離された,閉じられた物語のことを指すが,Hobsonがカセットテープに残した歴史改変物語“Hobstown”は,決して抽象的過去などではない。それは,確かに「過去」を扱っているものの,「現在」の物語である。「現在」の世界とそこに生きる個人が未だ抜け出せないでいる「囚人のジレンマ」が描かれていることだけが,その理由ではない。「現在」を先取りするがごとく,タイムカプセルに封入された<進歩の夢>が否定されている。また,“Hobstown”に登場するWalt Disneyの手による長編映画You Are the War(ただし,Hobsonの完全な空想の産物)は,物語が世界を変えうる可能性を前面に押し出して製作されたものであるが,Hobsonにとって,その映画は,閉じられた一つの物語の無力さの象徴であり,「現在」における再解釈の重要性を体現したものなのである。このように,Hobsonは,抽象的過去に抵抗するかのごとく,「過去」を「現在」に積極的に接続するわけだが,そうした語り直しの構造は,彼の意思を継いだ息子たちによる回想物語の挿入によって,より一層強化されている。

それでは,「過去」を「現在」の物語として語り直し続けることが何故重要なのか。その答えのヒントとなるのが,「人間誰にでも,誰もが思っている以上のものがある」(PD 153)というHobsonの信念である。つまり,彼は,抽象的過去の中だけでは決して個人の全貌は明らかにならないため,その枠に収まりきらない部分を回収する義務が自分にはあるという考えに取り憑かれているのだ。そして,そうした再発見は「現在」という文脈においてのみ可能だと彼は信じて疑わない。Prisoner’s Dilemma は,Powersの作品群の中でも,物語るという行為がとりわけ前景化されている作品だが,その根底にあるのは,こうした,「過去」に対する責任とでも言うべき,物語行為の倫理であることを,他のPowers作品にも言及しつつ,明らかにしたい。


川村 亜樹 愛知大学


9.11の記憶と向き合おうとすると不可避的に中東が現前すると同時に,「そのとき何をしていたか」という問いに対する個別の語りがテロリズムの強大な力を乱反射する。このぬぐい去れない歴史の呼びかけによって,アメリカはグローバルな金融市場の夢からなかば醒めつつ,中東へとつながる先の見えない現実の砂漠をさ迷うことになる。その結果,アメリカは他者の呼びかけに応答責任のある主体を与えられ,他者との可変性を孕んだ歴史の共有を意識させられることになる。本発表ではこうしたアメリカに対する9.11の影響,そしてテロリズムの暴力への対抗戦略を,Judith Butlerの理論を参照しつつ,Don DeLilloのFalling Man (2007)をとおして考察する。

DeLilloはMao II (1991)で中東のテロリストを可視化し,9.11後間もなくエッセイ“In the Ruins of the Future”(2001)を発表し,同時期に執筆途中であったCosmopolis (2003)ではニューヨークでのテロを予感していたように,テロリズムをライトモチーフとして描いてきた。そのなかで,他者なるテロリストたちを想像するとともに,アメリカにおける歴史の存続やアメリカ的主体の変容の可能性を示すといったように,グローバル社会のなかでのアメリカとテロリズムの関係を多角的に思考する場を提供してきた。

Falling Man では,アメリカ的主体を体現するKeithは,ルールのある閉ざされた空間でポーカーゲームに日々没頭していたが,9.11の現場に居合わせ負傷する。その後自己再生のプロセスのなかで,テロの残響としての不倫を解消してポーカーの空間へ再び戻ろうとするが歴史の傷跡が消えることはない。その一方,テロの瞬間を繰り返し再現して騒動を引き起こす“falling man”を目撃する彼の妻Lianneは,テロリストたちへの鬱積する怒りを抱えながら,アルツハイマー患者たちとの語らいのなかでテロの記憶を分裂させていく。こうした点を踏まえ,トラウマの記憶を消し去ろうとする被害者である夫と,それを許さない妻が,息子とともに一つの家族を保っている状況について検討したい。

そのうえで,インタールードとして挿入されている,テロ実行に至るまでの準備期間におけるテロリストたちの心理的動揺を分析するとともに,中東とアメリカの直接の接触をとらえた圧巻のラストシーンである航空機突入の描写の意義について述べたい。9.11直後,アメリカの作家たちはテロを描写すべきかどうか公に議論していた。したがって,本発表ではその議論に「他者の呼びかけに応答責任のある主体」というキーワードをもとに一つの答えを出すことになる。


新田よしみ 福岡大学


Steven Millhauser(1943- )は,1996年に発表した長編作品Martin Dressler: The Tale of an American Dreamer でピューリッツアー賞を受賞した。長編作品に加え,短編作品の非常に多い作家である。彼の短編小説はオーストリアやイギリスなどアメリカ国外にもその舞台をおき,時代も現代だけではなく,過去実際に起こった出来事と関連付けている。これらの特徴は多くの短編作品に繰り返し見られるため,Millhauserの作品を解釈する際には歴史の影響力を読み解くことが重要である。

この点を踏まえ,本発表では “Eisenheim, the Illusionist”(1990)におけるステージ上の奇術師と観客との関係を,歴史的背景を考慮に入れながら分析する。この作品は他の短編とは異なり,作品の時代を説明する文章をあえて冒頭におき,読者に歴史認識を求めているので,舞台となっている19世紀オーストリアの政治体制がどのように維持されていたのか,この時代の芸術家はどのように認識されていたかを踏まえ,観客の中で唯一名前を与えられた人物の職業がなぜ「警察官」なのかを読み解く必要がある。

タイトルが示しているように,アイゼンハイムは幻影師として活躍し,ショーを見た観客に称賛される。このように,Millhauserの短編作品では,幻影師だけではなく,手品師,ナイフ投げ師,からくり人形師,画家などが,自身の最高の芸術を通して,観客の常識に疑問を投げかけるという構図が好んで用いられている。例えば,”The Barnum Museum” (1990)では,実在の人物P・T・バーナムが作った博物館を詳細に説明しつつ,観客の反応をうまく作品内に織り込んでいる。それに対し,”Kasper Hauser Speaks” (1998)では,19世紀ドイツに実在したカスパー・ハウザーが,芸術のことではなくて,他人との関わりが絶たれていた自身の過去を観客に語る。そして,この作品では,カスパーが観客に語っているシーンはあるが,観客の反応は言及されていない。

しかしながら,作品内に描写がないからといって,その背後の観客の存在は否定できない。芸術家と観客の対峙という構図は多くの作品に見られるが,Millhauserの関心は,他に類を見ない芸術家の活躍と,それに対する観客の賞賛といった一般的な関係にはない。芸術を見る者の心に作用する,暴力的とも言える力関係を描こうとしているのである。また,Pedro Ponceが”Eisenheim’s illusions unsettle the way audience understand magic, but they also unsettle how they understand the known world.”と指摘するように,アイゼンハイムの奇術は観客に既知の世界に対する不安感を引き起こす。それゆえ,ウール警部は「境界の侵犯」だと彼の奇術を危険視しているが,「境界」とは何か,また観客の心に直接作用する力に,なぜ警部のみ気づいたのかはあいまいである。

発表では,以上の点を明らかにしながら,ウール警部の存在によって交錯していく奇術師と観客の間にある力関係がその時代の政治形態維持に関わっていることを論証する。


Taras A. Sak 九州大学


This presentation takes DeLillo’s recent novel, Falling Man (2007), as its point of departure, contrasting it with White Noise (1985), which it parallels in many respects. More precisely, I begin by asking how we might look at the two texts in relation to one another, and what might be at stake for DeLillo in this repetition or rewriting. My argument concerns the manner in which DeLillo’s more recent work might be said to reflect a larger culture of anxiety concerning the place or role of the US in the post-Cold War, post-9/11 Era. Falling Man is, of course, a response to 9/11 and, as we might expect, an extremely solemn text. However, perhaps the somber tone of DeLillo’s most recent work, reflected in its austere prose, brevity and overall economy of style, itself reflects a deeper realization that the so-called “American Century” is truly at an end. More crucially, it may express a heightened sense of crisis, accompanying that realization, which is best summed up in DeLillo’s own agonized question in Falling Man : “What comes after America?” Indeed, what had once been portrayed with a lighter, perhaps even humorous touch in DeLillo’s work――namely, the failures of American foreign policy and the question of “terror” and political violence――is no longer a laughing matter in either Falling Man or in the post-9/11 phase of his career. As was the case with White Noise, we see in Falling Man trauma on a more intimate scale, involving a family, which parallels the larger, national or historical disaster; however, the characters are rendered more fully human, more vulnerable and therefore perhaps more sympathetic or approachable than in the former work. The conclusion, as well, while in some ways more melancholy, grants the reader a sense of hope that is largely absent from the earlier novel. Thus, while many critics see evidence of decline in DeLillo’s post-Underworld (1997) work, I will attempt to focus upon his achievements, which are substantial. Texts published between White Noise and Falling Man ――particularly the essay, “In the Ruins of the Future” (2001), the screenplay for the film Game 6 (originally written around 1991; revised in 2004; film released in 2005), and the short story, “Still Life” (2007)――will also be discussed in connection with the two novels that bracket my study. I will conclude with a brief look at his latest novel, Point Omega (2010).