1. 1.「日本の悲劇」を演じる――Madame Butterflyにおける機動(不可能)性

1.「日本の悲劇」を演じる――Madame Butterflyにおける機動(不可能)性

天野 貴史 大阪大学(非常勤)

 

19−20世紀転換期における舞台空間は、国民と国家を媒介し総合するメディアとして機能していた。本発表ではDavid BelascoのMadame Butterfly (1900)を取り上げ、演技と内容の両面において、国家の帝国主義的な運動が――対抗的な運動の可能性を封じ込めようとする企図とともに――この戯曲には反映されていることを論証する。

Madame Butterflyの上演に関して注目すべき事実は、主役の蝶々夫人を演じたのが日本人ではなかったということである。演じたのは「カリフォルニアの娘」Blanche Bates。乗馬を得意とする体の大きな女性で、個性が強く、とても芸者の役には向いていなかった。そこでBatesに芸者のいろはを指導したのが、彼女の家政婦で日本人移民のSukiだった。BatesはSukiを蝶々夫人の「オリジナル」と呼び、「私はSukiのすべてを舞台で真似た」と告白している。ならば、なぜ、蝶々夫人の役として「オリジナル」よりも「カリフォルニアの娘」が採用されたのか。

Batesは〈新しい女〉の象徴だった、とMari Yoshiharaは述べる。明快な指摘だが、女優という職業が顕示する「機動性」を見落としている。すなわち、家庭という「私」の領域から舞台という「公」の空間への不道徳な越境により〈娼婦〉のレッテルを貼られた女優が、なぜ、海の向こうの日本人を演ずれば〈新しい女〉として称賛されるのか。重要なのは、白人女優の人種・国境横断的パフォーマンスと「帝国の機動性」(Amy Kaplan)が連動し、共振していた点である。また、Sukiのその後にも注目しなければならない。「オリジナル」として蝶々夫人を演じる機会を与えられなかった彼女は、まもなく、家政婦という領域に留め置かれたまま他界する。Batesの機動性はSukiのそれの否定の上に成り立っていたのである。

こうした機動性の不均衡な配分は、作品の内容において、蝶々夫人とKateという対照的な二人の女性の性格に反映されている。蝶々夫人の部屋には、Pinkertonが残したスリッパが神棚に飾られている。このスリッパが、大澤真幸の用語を借りれば、「第三者の審級」の代理表象として機能しているがゆえに、蝶々夫人は「マダム・バタフライ」を演じるという規範に従わざるを得ない。他方、Kateは〈新しい女〉の機動性を十二分に発揮する。日本という異国の地に足を踏み入れた彼女は、夫Pinkertonを土着化から救出するという英雄的冒険を成し遂げるのみならず、蝶々夫人が産んだ夫の子を引き取ることによって、将来の脅威の可能性を――子供の名前は「トラブル」――あらかじめ封じておくことを画策するのである。

したがって「日本の悲劇」を演じる女優は自家撞着を起こすことになる。人種、階級、文化、地理などの境界を容易に越えることができる機動性を有する近代的な女優が、にもかかわらず、そうした機動性を否定された他者を演じなければならないのだから。外部に向かう国家の運動が内部における国民の形成にもたらした影響――その一端を、われわれは、白人女優の機動(不可能)性に確認することができる。