1. 1.「縺れた荊」に触れながら――Lolitaにおける“aesthetics”の残酷さ

1.「縺れた荊」に触れながら――Lolitaにおける“aesthetics”の残酷さ

後藤  篤 大阪大学(院)

 

様々な文学的技法を駆使し、難解な虚構世界を自在に操る言葉の魔術師。Vladimir Nabokovにまつわるこうした文学史的な作家像に鑑みてその代表作Lolita (1955)を手に取る読者は、「美的至福」(aesthetic bliss)を志向する作者の審美主義の賜物たるこの小説の読解=解読作業という、優雅な知的遊戯へと誘われることになるだろう。この意味において、Nabokov自身が小説のあとがきで強調しているように、「Lolitaはいかなる教訓も引き連れていない」。

一方で、1977年のNabokovの死を経た80年代以降、審美主義的な作品解釈を批判的に捉え直しながらLolitaの倫理的側面に光を当てるといったアプローチが幾度となく試みられてきた。Contingency, Irony, and Solidarity (1989)所収のNabokov論で展開されるRichard RortyのLolita解釈は、この種の議論の白眉と呼べるものだ。Nabokovの文学芸術の鍵概念を「残酷さ」(cruelty)に見るRortyは、物語中第2部第16章のたった一文にだけ登場する「カスビームの床屋」(the barber of Kasbeam)のエピソードを起点に他者の苦痛に対するHumbertの関心の欠如を導き出し、そこにこの一文を読み飛ばす読者の不注意を重ね合わせることによって、Lolitaが引き連れる「教訓」を見事に描いてみせた。

しかしながら、Lolitaにおける「残酷さ」とは、作者にとっての理想的な読み方を取ったRortyのように、周到に用意された経路を辿った時に初めて経験されるものなのだろうか。むしろそれは、Humbertが言う「縺れた荊」(tangle of thorns)の如く複雑に絡み合ったLolitaの審美主義(aesthetics)と倫理(ethics)、いわば“aesthetics”を(読み)解こうとする読者のあらゆる試みに常に既に孕まれているものではないだろうか。というのも、Nabokovが文学講義等で主張するような、「再読」を繰り返す中で小説の「細部」を「愛撫」するという読書の方法をLolitaという「書物」(“book”を意味するロシア語“kniga”は女性名詞である)を相手に実践する読者は、物語の中で生身のLolita=Doloresを、そしてその語りの中で自らが紡ぐ言葉を彼女の代替物として「愛撫」するHumbertの行動を必然的になぞることになるからだ。

こうしたHumbertと読者の不可避の同一化の問題を考察するにあたり、本発表ではHumbertとLolitaの再会の場面が描かれる第2部第29章を取り上げ、特にLolitaに「触れる」ことを極端に避けるHumbertの素振りと自らの「手」についての彼の思索が持つ意義を検討していく。二人の最後の「接触」の場面解釈から浮かび上がるLolitaの「触覚」の主題を手がかりに、登場人物としてのHumbertが抱くLolitaへの愛着(attachment)と無関心(detachment)、そしてそれらを自覚する語り手としてのHumbertにとっての過去に触れ直す/を手直しすること(re-touch)の逆説という観点からRortyの議論を敷衍しつつ、物語がその語り手と読み手双方にもたらす「残酷さ」に関するさらなる分析を試みたい。