1. 2.文学の危機を越えて――Don DeLilloのMao Uにおける小説家とテロリストの反転について

2.文学の危機を越えて――Don DeLilloのMao Uにおける小説家とテロリストの反転について

矢倉 喬士 大阪大学(院)

 

「文学が脅かされている」。これは文学史において形を変えて幾度となく表れてきた問題である。Jean-Paul SartreやTheodor W. Adornoは飢えや死を前にしたときの文学の有用性のなさを嘆き、Tzvetan Todorovは文学理論の濫用によって文学は機能主義的にしか読まれなくなってしまったと述べた。Don DeLilloのMao U (1991)もまたそのような「文学の危機」を扱った作品であると位置づけることができる。

しかし、Mao Uにおける「文学の危機」は、「文学が脅かされている」という被害者意識に留まらず、「文学が脅かしている」という加害者意識へと反転していくところにその特徴がある。Mao Uにおいて文学を脅かすものは「イメージ」と「テロリズムに代表される暴力・全体主義思想」の二つが挙げられるが、本発表では主に後者を扱い、「文学が脅かしている」というテーマでの分析を試みる。

作品に登場する小説家Bill Grayが掲げる「テロリスト対小説家」という二項対立に関して、批評家たちはテロリストと小説家の共犯関係を指摘し、そのような対立の虚構性を主張してきたが、それではいかにして小説家は加害者となりうるのかということには誰も踏み込んでこなかった。つまり「文学は何を、どのようにして脅かしているのか」が問われねばならないのだ。この問いに答えるにあたって本発表では、Anthony Kubiakのテロリズム論と、Judith Butlerの9.11論を援用する。Kubiakからは、「テロリストとは、西洋に届く言葉を持たないがゆえに暴力的行為に及び、その目撃者に物語らせるという手法をとる小説家である」というテーゼを引き出し、Bill Grayのようなアメリカ白人小説家がベイルートの武装グループの言葉を奪っていることを確認する。そして次にButlerの議論から、「全体主義・原理主義から個人を救い出そうとするリベラル知識人は、自らがそのような可能性を踏みにじっていることに気づかないことがある」というテーゼを引き出し、文学が個人の声を殺してしまうことが有り得ることを確認する。

以上を踏まえた上で、Mao UにおいてなぜBill Grayは「テロリスト対小説家」という対立構造を見ようとしたのかについても分析する。それにあたり、Samuel P. Huntingtonの「文明の衝突」論を、アメリカがヨーロッパ諸国との連帯意識を強めようとして打ち出した国家戦略であったとする中西輝政の論を参照し、Mao Uにおける「テロリズム対文学」という対立構造は、アメリカがヨーロッパ諸国との連帯意識の強化のために共通の敵を作り上げようとする国家戦略とパラレルを成していることを明らかにしたい。