1. 第8室(D401教室)

第8室(D401教室)

開始時刻
1. 午後2時00分 2. 午後2時55分
3. 午後3時50分 4. 午後4時45分(終了5時30分)
司会 内容
巽  孝之

1.「縺れた荊」に触れながら――Lolitaにおける“aesthetics”の残酷さ

  後藤  篤 : 大阪大学(院)

2.文学の危機を越えて――Don DeLilloのMao Uにおける小説家とテロリストの反転について

  矢倉 喬士 : 浜松学院大学

下條 恵子

3.HeinleinのBetween Planetsにおける帝国と多国籍企業の戦い

  島  克也 : 広島大学(非常勤)

4.David Foster Wallace, Infinite Jestにおける自己への配慮

  永野 良博 : 上智短期大学



後藤  篤 大阪大学(院)

 

様々な文学的技法を駆使し、難解な虚構世界を自在に操る言葉の魔術師。Vladimir Nabokovにまつわるこうした文学史的な作家像に鑑みてその代表作Lolita (1955)を手に取る読者は、「美的至福」(aesthetic bliss)を志向する作者の審美主義の賜物たるこの小説の読解=解読作業という、優雅な知的遊戯へと誘われることになるだろう。この意味において、Nabokov自身が小説のあとがきで強調しているように、「Lolitaはいかなる教訓も引き連れていない」。

一方で、1977年のNabokovの死を経た80年代以降、審美主義的な作品解釈を批判的に捉え直しながらLolitaの倫理的側面に光を当てるといったアプローチが幾度となく試みられてきた。Contingency, Irony, and Solidarity (1989)所収のNabokov論で展開されるRichard RortyのLolita解釈は、この種の議論の白眉と呼べるものだ。Nabokovの文学芸術の鍵概念を「残酷さ」(cruelty)に見るRortyは、物語中第2部第16章のたった一文にだけ登場する「カスビームの床屋」(the barber of Kasbeam)のエピソードを起点に他者の苦痛に対するHumbertの関心の欠如を導き出し、そこにこの一文を読み飛ばす読者の不注意を重ね合わせることによって、Lolitaが引き連れる「教訓」を見事に描いてみせた。

しかしながら、Lolitaにおける「残酷さ」とは、作者にとっての理想的な読み方を取ったRortyのように、周到に用意された経路を辿った時に初めて経験されるものなのだろうか。むしろそれは、Humbertが言う「縺れた荊」(tangle of thorns)の如く複雑に絡み合ったLolitaの審美主義(aesthetics)と倫理(ethics)、いわば“aesthetics”を(読み)解こうとする読者のあらゆる試みに常に既に孕まれているものではないだろうか。というのも、Nabokovが文学講義等で主張するような、「再読」を繰り返す中で小説の「細部」を「愛撫」するという読書の方法をLolitaという「書物」(“book”を意味するロシア語“kniga”は女性名詞である)を相手に実践する読者は、物語の中で生身のLolita=Doloresを、そしてその語りの中で自らが紡ぐ言葉を彼女の代替物として「愛撫」するHumbertの行動を必然的になぞることになるからだ。

こうしたHumbertと読者の不可避の同一化の問題を考察するにあたり、本発表ではHumbertとLolitaの再会の場面が描かれる第2部第29章を取り上げ、特にLolitaに「触れる」ことを極端に避けるHumbertの素振りと自らの「手」についての彼の思索が持つ意義を検討していく。二人の最後の「接触」の場面解釈から浮かび上がるLolitaの「触覚」の主題を手がかりに、登場人物としてのHumbertが抱くLolitaへの愛着(attachment)と無関心(detachment)、そしてそれらを自覚する語り手としてのHumbertにとっての過去に触れ直す/を手直しすること(re-touch)の逆説という観点からRortyの議論を敷衍しつつ、物語がその語り手と読み手双方にもたらす「残酷さ」に関するさらなる分析を試みたい。


矢倉 喬士 大阪大学(院)

 

「文学が脅かされている」。これは文学史において形を変えて幾度となく表れてきた問題である。Jean-Paul SartreやTheodor W. Adornoは飢えや死を前にしたときの文学の有用性のなさを嘆き、Tzvetan Todorovは文学理論の濫用によって文学は機能主義的にしか読まれなくなってしまったと述べた。Don DeLilloのMao U (1991)もまたそのような「文学の危機」を扱った作品であると位置づけることができる。

しかし、Mao Uにおける「文学の危機」は、「文学が脅かされている」という被害者意識に留まらず、「文学が脅かしている」という加害者意識へと反転していくところにその特徴がある。Mao Uにおいて文学を脅かすものは「イメージ」と「テロリズムに代表される暴力・全体主義思想」の二つが挙げられるが、本発表では主に後者を扱い、「文学が脅かしている」というテーマでの分析を試みる。

作品に登場する小説家Bill Grayが掲げる「テロリスト対小説家」という二項対立に関して、批評家たちはテロリストと小説家の共犯関係を指摘し、そのような対立の虚構性を主張してきたが、それではいかにして小説家は加害者となりうるのかということには誰も踏み込んでこなかった。つまり「文学は何を、どのようにして脅かしているのか」が問われねばならないのだ。この問いに答えるにあたって本発表では、Anthony Kubiakのテロリズム論と、Judith Butlerの9.11論を援用する。Kubiakからは、「テロリストとは、西洋に届く言葉を持たないがゆえに暴力的行為に及び、その目撃者に物語らせるという手法をとる小説家である」というテーゼを引き出し、Bill Grayのようなアメリカ白人小説家がベイルートの武装グループの言葉を奪っていることを確認する。そして次にButlerの議論から、「全体主義・原理主義から個人を救い出そうとするリベラル知識人は、自らがそのような可能性を踏みにじっていることに気づかないことがある」というテーゼを引き出し、文学が個人の声を殺してしまうことが有り得ることを確認する。

以上を踏まえた上で、Mao UにおいてなぜBill Grayは「テロリスト対小説家」という対立構造を見ようとしたのかについても分析する。それにあたり、Samuel P. Huntingtonの「文明の衝突」論を、アメリカがヨーロッパ諸国との連帯意識を強めようとして打ち出した国家戦略であったとする中西輝政の論を参照し、Mao Uにおける「テロリズム対文学」という対立構造は、アメリカがヨーロッパ諸国との連帯意識の強化のために共通の敵を作り上げようとする国家戦略とパラレルを成していることを明らかにしたい。


島  克也 広島大学(非常勤)

 

Robert Heinlein(1907-1988)が1951年に出版した青少年向けSF小説Between Planetsは、主人公Donaldが、圧政を敷く帝国とその植民地の間で勃発した独立戦争に巻き込まれてゆく様子を描く物語である。Heinleinが帝国と植民地の対立関係を長編小説で描くのは、Red Planet (1949)に続いて二度目であり、植民地の独立が達成される過程で主人公が精神的成長を遂げるという物語構造も反復されている。そのため、Between Planetsに対する批評は、Red Planetに対する批評と同様に、その教養小説的側面を論じているものが多い。

しかしBetween PlanetsがRed Planetと異なるのは、その独立戦争に多国籍企業が介入していることである。この小説には、帝国の交通インフラを独占する“Interplanet Lines”、大手通信会社AT&Tを連想させる“IT&T”、さらには“COCA-COLA”という実在の企業が登場している。これらの多国籍企業は、交通・情報インフラを整備することによって帝国の根幹を担い、その退廃的な消費文化に彩りを加えているが、植民地人による独立運動に対しても、秘密裏に経済的・技術的な援助を行っている。しかしその援助は、植民地が掲げる政治姿勢への賛同によってなされているのではなく、一定の距離を保ってなされている。つまりこれらの多国籍企業は、帝国と植民地に対して意図的に不明瞭な態度を示すことによって、両者から敵視されることを防止すると同時に、その対立関係を継続するために必要とされる援助を与えることによって、その紛争をコントロールしようとしていると解釈することが可能であろう。

そこで本論では、1950年代から60年代にかけて多国籍化したアメリカの大企業が、世界各国に様々な影響を与えたことを考慮に入れ、この小説を、帝国と植民地の戦いの中で成長する少年の姿を描く教養小説としてではなく、帝国と多国籍企業の覇権争いを描く小説として読むことを試みる。考察を進める上で特に注目したいのは、帝国が構築するネットワークと、多国籍企業が構築するネットワークの構造的差異である。帝国が構築するネットワークを同心円状・階層的なネットワークと捉え、多国籍企業が構築するネットワークを中心点のないウェブ状のネットワークと捉えた場合、両者は「規制」に正反対の影響を受けることがわかる。二種類のネットワークが繰り広げる、「規制」を巡る闘争をこの小説に見出したい。


永野 良博 上智短期大学

 

David Foster Wallace作Infinite Jest (1996 )は、20世紀末から21世紀初頭のアメリカ自由主義、資本主義社会において、作中人物が熾烈な個人間の競争を通して、自己実現と社会的成功へと自らを駆り立てる姿を描いている。だが作品が特に着目するのは、彼等の中でも生きること自体に圧倒され、人生の歯車が狂い、生活が制御不可能な状態に陥っている人々である。Wallaceのアメリカにおいては、野心と競争が社会的、文化的原動力であり、人々を階層制度の中で上昇するよう突き動かすのだが、同時にそれは目的の達成に失敗した人々を厳しい精神状態へと追い込んでゆく。彼等は自己実現と成功への機会を可能な限り活かし、幸福を最大限に追求するため、殆ど不可能と思われる目標に向かうのだが、常に不安に苛まれ、さらに失敗が原因となる敗北感、無力感、絶望感に支配されることになる。そのような精神状態が彼等をアルコールと薬物の乱用へと導く。

Infinite Jestの中心的物語は、ボストンに位置するEnfield Tennis Academyで展開され、競争原理に貫かれたエリート教育機関で学ぶ学生は、成功への野心に取り付かれ、テニスランキングの階段を可能な限り上昇すべく悪戦苦闘する。本発表ではまず彼等がいかにして心を蝕む敗北感と無力感に対峙するのかに注目する。そのような感情に彼等は禁欲的かつ厳しい自己鍛練を通して対処しようと試み、さらに自らの野心的な目的を成就するため精神的及び肉体的な意味において自己への配慮を行う。自己への配慮は個人の持つ独自性と卓越性を求める闘争において、重要な要素であると考えられる。その主題の探求のため、哲学的及び心理学的なアプローチを用いて、自己の問題を扱ってゆきたい。その際に中心的な作業となるのは、E.T.A.が重視する競技者の哲学の分析である。競技者の哲学がいかにして自己実現、自律、競争相手である他者との関係等の問題と関連し、作中人物の自己への配慮を成功へと、或いは失敗へと導くのか検討してゆきたい。

若きアスリートの自己への配慮と同時に議論すべきなのが、生活が破綻し絶望的な無力感へと陥った大人達である。彼等はエリート教育機関であるE.T.A.の傍に設置されたEnnet House Drug and Alcohol Recovery Houseと呼ばれる社会復帰施設で暮らす人々である。そこで住人達はアルコールと薬物への依存を断ち切るため、社会復帰プログラムに参加し、或る者は自己鍛錬を行う。若きアスリートそして社会復帰施設の住人が提示する自己への配慮の持つ可能性を検討し、彼等が個人を圧倒する殆ど制御不能な生にいかにして対処し、生き延びてゆくために人生の技術者へと自己形成を行ってゆくのか探りたい。さらに道徳性の生物学的な起源と無力さとの関係を分析し、或る登場人物が示す生き延びるための術を一つのモデルとして提示したい。それはWallaceが描くような文化的、社会的力によって疲弊させられ苦境に立たされた人々を、導くための一助となり得ると考えている。