1. 第5室(A403教室)

第5室(A403教室)

開始時刻
1. 午後2時00分 2. 午後2時55分
3. 午後3時50分 4. 午後4時45分(終了5時30分)
司会 内容
 

1.セッションなし

西垣内磨留美

2.『彼らの目は神を見ていた』におけるセルフ・ヘルプとニューディール

  深瀬有希子 : 東京理科大学

吉岡志津世

3.異国――James BaldwinのAnother Country における<場>の表象とスタイル

  辻  秀雄 : 首都大学東京

4.祖父の亡霊とギリシャ悲劇の接点――Ralph EllisonのInvisible Man

  松本  昇 : 国士舘大学



深瀬有希子 東京理科大学

 

Zora Neale HurstonのTheir Eyes Were Watching God (1937)は、主人公ジェイニーが祖母の言いつけに従い財ある男性と結婚するも、その後は己の意思で共に生きるべき相手を選び、ついには夫の命を絶ち自らが生きのびる様を描く――黒人女性が自立を模索し獲得していく物語である。多くの批評家によって、ジェイニーが二番目の夫ジョー・スタークスに口答えして彼をやりこめる件は、彼女が「声」を獲得する決定的場面であると指摘されてきた。では一方、ジェイニーが胸の内を明かさないかのごとく「声」の表出に抑制をきかせる場合はあっただろうか。これに関する場面として、ミセス・ターナーという白さを崇拝する人物が、薄い色の肌をしたジェイニーに近づき自分の弟との再婚を勧める箇所が思いつく。この時ミセス・ターナーはブッカー・T・ワシントンを白人にすりよる黒人だと非難するが、それに対してジェイニーは、自分はワシントンを尊敬する環境で育ったと一言述べるにとどまる。

ここで考えるのは、本作品ではいわばワシントン的立身出世はどのように描かれ、誰がそれを体現しているかという点である。それはジェイニーの最愛の夫ティー・ケイクなのか、彼女が打ちのめしたジョー・スタークスなのか。またさらに、ジェイニーに再婚話を持ちかけたミセス・ターナーの食堂経営が、ティー・ケイクら黒人季節労働者がなす巧妙なパフォーマンスにより妨害されるという展開は、黒人共同体における経済的自立の問題とどう関わるのだろうか。作中では、服の裏側に金銭を隠し持つなどして、ジェイニーが財を守ろうとする様子が何度か描かれている。ジェイニーが黒人仲間の羨望の的になるのは、彼女の機知、好奇心、寛容、薄い色の肌、そしてこの財産のためでもあった。財を持つ黒人女性主人公としてほかに思いうかぶのは、Toni Morrisonが描くスーラである。実はスーラには十分な貯えがあったゆえに、町ののけ者であり「おひとりさま」であった彼女の葬儀は白人の手によって無事とり行われたのだった。

Hurstonは1928年オキチョビー・ハリケーン襲来前後のフロリダ黒人民衆の生活を、1936年より滞在していたハイチにて振り返り物語った。本発表では、ブッカー・T・ワシントンやオールドライトに共感し、ニューディール政策に異議を唱えたというHurstonの自立・自助観を、本作品以後に書かれた文章とともに考察する予定である。


辻  秀雄 首都大学東京

 

James Baldwinの第三長編、Another Country (1962)は、Baldwin文学を特徴づける、時として過剰な感受性と、それを伝える文体が際立つ作品である。そうしたAnother Countryのスタイルを、同作品の空間表象とのつながりから検討するのが、本発表の目的である。

その題名がよく示すように、Another Countryにおける「場」の重要性は明白であろう。自伝的色合いの濃い第一長編、Go Tell It on the Mountain (1953) でアフリカン・アメリカンの青年主人公が家庭やコミュニティにおいて感じる閉塞感や疎外感を描いたBaldwinは、続くGiovanni’s Room (1956)で舞台をハーレムからパリへと移し、バイセクシュアルの白人男性を主人公に据えてその孤独に焦点を当てるという大きな実験を試みる。この反動であるかのように、Another Countryは再び舞台をニューヨークへ戻し、白人とアフリカン・アメリカンが入り混じった一群の登場人物たちの関係や摩擦のなかに、個々人間に結ばれうるつながりが模索される。この第三長編までの大西洋横断的な道程は、Another Country自体に落とし込まれ、愛憎入り乱れ、暴力、裏切りがあふれるニューヨークと、牧歌的な性の楽園としての南仏が対比的に描かれるなか、人種問題やホモフォビアに代表される、アメリカにおける様々な人間関係を巡る困難が際立たせられる。と同時に、登場人物たちを通してそうした問題を直視しようとするBaldwinの強い決意が、読者をゆさぶる。

このように、異国空間や亡命者的生活は、アメリカにいては得ることのできない視座を作品内外でBaldwinに与えた。しかし、本発表が注目するのは、異国が単に創作に有効な視座を提供したということだけではなく、Another Countryにおけるそうした経由的な自己のルーツの掘り下げが、反復的かつ連鎖的に積み重なってAnother Countryという小説そのものを成している可能性だ。換言すれば、異国から自国へ向けられた眼差しは、自己を他者との関係性においてとらえなおす登場人物たちの葛藤と響きあい、その自己探求が逆説的にも他に開かれた営為として現れてくるのである。この点、Another Countryの主要登場人物の一人、Vivaldoが作家志望であることは見逃せない。彼がまだ真の作品を書くには至らない理由が、「自己の秘密を世の光にさらすことができていない」とされるからだ。個人の奥底にひそむ秘密を言語化するということ、すなわち、アイデンティティの模索が他とのコミュニケーションの道具によってこそなされるというBaldwinの明察と実践は、彼の文学スタイルを理解する手助けになろう。

すなわち、同小説前半において自殺するアフリカン・アメリカンのジャズ・ドラマー、Rufusがセッションを共にしたサックス奏者の渾身の演奏に聞き取った「俺を愛しているか、俺を愛しているか」というメッセージ、そのような直接的で密接な問いかけをこそ、Another Countryのスタイルに位置付けていきたい。Baldwin文学の伝染的、媒介的な力は、このようにスタイルを動的な所作として解釈することで明らかになってくるはずだからだ。


松本  昇 国士舘大学

 

Ralph Ellisonの小説Invisible Man (1952)のエピグラフには、T.S. Eliotの戯曲The Family Reunion (1939)の一節が引用されている。「いいかい、おまえらは僕を見ているのではない。おまえらがニヤニヤ笑いかけている相手は僕ではないし、打ち明け話をするような顔で有罪だと言わんばかりに見ている相手も僕ではなくて、別の人間なんだ。そうじゃないんだ。死体嗜好症のおまえらなんか、そいつの亡骸でも食っていればいいんだ」。こう語るのは、放浪の旅から帰国したハリーであり、語りかける相手は亡霊のような影、つまりギリシャ悲劇に登場する復讐の女神たちエウメニデスである。

ハリーがこれらの言葉を発したのは、彼の母親で北アイルランドに住む未亡人の邸宅の応接間のことであり、その日、未亡人の誕生日を祝うために親族が集まっていた。だが、ハリーがこのように語りかけても、親族には彼が語りかけている相手が見えず、親族は、ハリーが狂気に陥っていると思い込む。

かつてハリーは、結婚した妻と一緒に船で大西洋を横断していたとき、妻を船上から突き落として死なせたことがあった。今福龍太はその著『群島――世界論』(2008)に収められた「痛苦の規範」の中で、この痛ましい逸話がより大きな主題を顕在化させるための導火線であったと指摘し、その理由を次のように述べている。「おそらくこの暗示的な逸話は、ハリーの過去にはり付いた意識を語る以上の、決定的に象徴的な心像を、あるいはエリスンの黒人意識に刻み込んだかもしれない。なぜなら、奴隷船の船上から大西洋の深みへと投げ捨てられてきた用済み奴隷をめぐる過酷な数世紀の歴史は、すぐにいかなる覚醒した黒人にとっても周知の事実だったからである」。たしかに今福の指摘は正鵠を射ている。それは、マルティニックの詩人Derek Walcottがカリブの紺碧の海に民族の悲惨な歴史を読みとり、その海を表現した言葉「あの灰色の納骨堂」を彷彿とさせる。

しかしながら、EllisonがInvisible ManのエピグラフにThe Family Reunionの一節を載せたのは、それだけではないように思われる。Invisible Manの主題はエピグラフを契機にして、この戯曲の主題そのものと、戯曲の題材になったAeschylusのOresteia三部作を射程において考えられるべきである。Eliotは、みずからの危機的な状況を克服するために伝統的な範型をギリシャ悲劇に求めた。Ellisonもまた、Eliotに倣って、混沌とした現実に秩序をもたらすために、その範型をギリシャ悲劇に求めた。

この範型こそ、Invisible Manの主題と密接な関係があるはずだ。では、その範型とは具体的に何だったのか。本発表の目的は、Invisible Manの中で謎めいた遺言をのこして死んでいった祖父の亡霊を念頭におきながら、この問いを考察することにある。キーワードは、復讐、和解、そして民主主義の原理である。