1. 第9室(全学教育棟本館S1X講義室)

第9室(全学教育棟本館S1X講義室)

開始時刻
1. 午後2時00分 2. 午後2時55分
3. 午後3時50分 4. 午後4時45分(終了5時30分)
司会 内容
 

1.セッションなし

江田 孝臣

2.敷き詰められた言葉と小石――G. SnyderのRiprap and Cold Mountain Poems における自然描写

  吉岡 由佳 : くらしき作陽大学

平野 順雄

3.H. D.とMarianne Mooreの”Crystalline Poetry”―― 1910年代、1920年代の詩を中心に

  上野 葉子 : 活水女子大学

4.「だれでもないもの」の声が生じるとき――Michael Palmer とIrving Petlinのコラボレーション

  山内功一郎 : 静岡大学



吉岡 由佳 くらしき作陽大学

 

Gary Snyder (1930-)は、サンフランシスコに生まれ、1950年代後半のビート・ジェネレーションにおいて活躍した。臨済禅だけでなく、ヒンドゥー教や真言密教などにも精通しており、詩作においては息や声といった身体のリズムと自然のリズムの一致を重視して創作している。また、1970年以来、シエラ・ネヴァダ山麓で暮らし、ディープ・エコロジストとして環境保全運動にも精力的に取り組んでいる。

Snyderは、自然・宇宙、仏教への言及がその詩作の特徴と言えるが、とりわけMountains and Rivers without End (1996)においては水のイメージが重要な機能を果たしている。つまり、水の流れと山々の流麗な連なりが、山水画の絵巻のストーリーの流れと重ね合わされており、詩行が一つの絵巻として相互に関連しながら進行する構図が読み取れる。また、山を構成する木々や土、小石の描写もSnyderの自然観を表現する上で重要な要素である。Snyderの第一詩集Riprap and Cold Mountain Poems (1959)は、そのタイトルが示すように「リップラップ」――すなわち、道路工事や山道造りにおいて基層に使われる砂利や小石、及びそれらを平らに敷き詰める作業――が詩集全体を通して貫かれたテーマとなっている。詩集冒頭でSnyderは“Riprap”について “a cobble of stone laid on steep, slick rock to make a trail for horses in the mountains”と定義している。Mountains and Rivers without End における水の動的なイメージとは対照的とも言える、敷き詰められた小石の描写を考察することによって、Snyderの自然観を明らかにする手がかりとしたい。

そこでまず、Mountains and Rivers without End における詩作と水の流れの一体化と同様に、Riprap and Cold Mountain Poemsにおいて小石や砂利による「リップラップ」と詩の構造に類似性が見られるのかを考察する。本詩集に収録された“Riprap”、“Praise for Sick Women”及び “Piute Creek”に描かれる小石の表象と詩の構造を分析することで、小石を敷き詰める行為・技法と詩の言葉の相関関係を浮かび上がらせる。さらに、Riprap and Cold Mountain Poems に収録された詩“Water”とMountains and Rivers without End における小石の表象を比較することで、Snyderの詩作における水と小石の重要性を重層的に議論したい。

以上の考察を通して、自然のリズムを詩作に詠み込むことと、Snyderが詩作において重要視してきた息・声という外界と人体内での空気の循環のプロセスがいかに有機的に重なり合っているのかを明らかにすることによって、Snyderがビート・ジェネレーションという人間性回復の模索時期から、エコロジー思想へとたどり着いた過程を検討したい。


上野 葉子 活水女子大学

 

同じ世代のアメリカの詩人H. D.とMarianne Mooreの作品は、20世紀初頭のモダニズム台頭の動きを無視しては理解することはできない。この二人の詩人の初期の作品はともに、正確な描写、明快なイメージ、凝縮、客観性、個人的な感情の抑制、といったモダニズムの考えと一致する特徴を備えていた。特に、H. D.の詩は、イマジズムの理想として評価されていた。Mooreの詩は独自の特徴を色濃くもっていたが、それでも、Mooreはおおむねイマジズムもしくはモダニズムの傾向に従おうとしていた。一方、このモダニズムの”hard style”は、彼女たちのジェンダーの点から見ると複雑な問題を伴うものでもあった。H. D.とMooreはどちらも、ロマン派的な美学、すなわち感情の過剰な吐露、優しい美への耽溺といったものに惹かれていたが、それらは女性的なものとしてモダニストたちからは排斥される傾向にあったため、彼女たちもまたこうした性質を自らの詩から排除しようとしたのである。

イマジズムの時代の終わり頃から、この二人の詩人の詩は変化を見せ始める。彼女たちの詩は、以前ほどは凝縮されていないものになり、イマジズムのコンパクトな詩のもつ束縛を打ち壊す、巨大なエネルギーを表現するようになる。より饒舌で散漫なスタイルを採用するようになったのと同時に、彼女たちは、「女性的」とみなされてモダニズムの詩からは排除された要素を復活させた。H. D.は、頻繁に女性登場人物の声を使用して女性の感情を表現した。また、男性のモダニズム詩人が女性的と呼んで捨て去ることを決めた退廃的な美を詩の前面に置いた。Mooreは、彼女の最も長い詩”Marriage”で女性登場人物に語らせ、家父長制について批判させた。Mooreもまた、以前には控えていた退廃的な美を描き、一般的に女性的と考えられている花の美しさを堂々と扱うようになった。

二人の詩人のイメージは、彼女たちの詩とモダニズムの関係を暗示している。二人は文字どおり「硬質な」イメージ、すなわちクリスタルや氷を描くのを好んでおり、その傾向は、彼女たちがモダニズムの凝縮された硬質なスタイルを支持していたことを反映すると思われる。イマジズムの時期の後でさえ、この詩人たちは、「クリスタルのような」(crystalline)イメージを強調して描いた。H. D.の詩の中の「クリスタルのような」物質は、自分の詩の冷たく硬い表面の下には熱い情熱を潜んでいるのだという彼女の主張として読める。Mooreの「氷のタコ」という「クリスタルのような」イメージは、H.D.のイメージとは違って、硬く静止していながらも、しなやかで捉えがたい。このタコの性質は、Mooreが表面的にはモダニズムの”hard style”を受け入れながら、同時に自分自身のスタイルを柔軟に発展させていたことを反映していると思われる。


山内功一郎 静岡大学

 

アメリカの詩人Michael Palmer (b.1943)は、1984年に出版された詩集First Figure に、“Niemandes Stimme, wieder” というエピグラフを付している。これは Paul Celan (1920-70) の詩篇 “Ein Auge, Offen” から取られたフレーズであり、英訳すれば “No one’s voice, again” ということになるだろう。それは「だれの声も聞こえない」沈黙の到来を意味していると同時に、「だれでもないもの」の声が「またしても」響き始めることを暗示している。どうやらPalmerの読者は、この極度にパラドクシカルな声を幾度となく耳にすることになるらしい。だがそれにしても、発話者が特定できない「だれでもないもの」の声は、そもそもどのような過程を経て生じることになるのだろうか。そしてその声が果たす機能とは?

今回の発表では、Palmerとコラボレーションを行った画家の作品画像を映写しながら、詩人自身の作品にも触れることによって、上に述べた問いの答を求めることにしたい。とりわけPalmerと長年に渡り親交を結んでいるIrving Petlin (b. 1934) の諸作品に、焦点が当てられることになるだろう。パリ在住のアメリカ人の画家として知られるPetlinが制作した “The Seine Series” (1995-96) は、上述のCelanやEdmond Jabés (1912-91), Primo Levi (1919-87) 等の作品に対する断片的な応答を示す一方で、“figures-which-are-not” (「存在しないものたち」) の影をも宿している。それら有形無形の亡霊的発話者たちの間で起こる対話が、どのようにしてPalmerの作品において増幅されるかという点を、まず明らかにする。そしてそのうえで、対話の果てに召喚される「だれでもないもの」の声が果たす役割をつきとめてみたい。Palmerによる詩篇としては、上述の “The Seine Series” と関係性の深い “The White Notebook” (2000年出版の詩集 The Promises of Glass 所収)およびその他数篇を分析の対象とする予定である。また時間に余裕があれば、PalmerとPetlinが手掛けた詩画集 Songs for Sarah (1987) にも触れてみようと考えている。