1. 2.Hemingwayにおける「自我」のパラドックス――忘我の感覚から考える

2.Hemingwayにおける「自我」のパラドックス――忘我の感覚から考える

田村 恵理 千葉工業大学(非常勤)

 

本研究では、Ernest Hemingwayがその作品や発言において忘我の感覚というモチーフを繰り返し用いた事に着目し、彼がこれを通じて言語と身体とを逆説的な意味をこめつつ強く結びつけて示している事を指摘する。以下の三点から考察する。

I. 一体化/忘我/「愛」

「あなたを愛しすぎて、もはや私など存在しない。私はあなた、あなたは私である」という言葉は、ロマンティックな物語において「愛」が語られる際良く持ち出される表現の一つである。何者かに対して身体的な一体感を覚え、この際に忘我の感覚を味わう事。そしてこの感覚を、ロマンティックな「愛」の物語の枠組みを用いて語る事。これをHemingwayは複数の作品や発言において繰り返した。こういった「愛」の物語の登場についてまず文学の歴史という大きな範囲から考察した後、Hemingwayの作品群に焦点を絞り、Hemingwayの作品においてはこのモチーフが、言語と身体との逆説性を含んだ深い結びつきを強調する役割を果たしているという論を提案する。

II. 二つの「愛」の物語―Mariaへの「愛」

For Whom the Bell Tolls における、主人公Robert Jordanの言葉による二つの「愛」の物語を比較し、Hemingwayが描く「言語と身体との結びつきに含まれる逆説性」を具体的に示す。この物語の結末において、怪我で動けなくなったJordanは、一緒にその場に残ると言うヒロインMariaにその場から去るよう説得するなかで、Iで述べた「愛」の物語の枠組みを用いる。しかし彼の意識の流れから読みとれるのは、彼がこの枠組みを幻想と認めつつ敢えて使用している点である。彼は、この同一化と忘我の幻想を語るという行為の方に重要性を見出している。このような彼によるMariaへの「愛」の物語を言語と身体、自我の関係に注意しながら読み、自我が身体的なものというよりは「語りという言語行為」により構築されると捉える主人公の一面を示す。

III. 二つの「愛」の物語―父親への「愛」

Jordan によるMariaへの「愛」の物語には、彼の父親についての回想が重ねられている。彼はここにおいて父親に執着すると同時に、父親と一体化していく可能性に怯えている。父親から自らに受け継がれているかもしれない「臆病さ」の血に怯える彼のこの語りからは、身体にあらかじめ存在する「言語的なものとは異なる何か」によって、自らがその意思とは関係なく既に形作られてしまっている可能性を考えずにはいられない彼の様子が明らかである。こういった意味で、この作品で彼によって語られる二つの「愛」の物語は、自我の捉え方という観点においては、言語と身体への強調の置き方に著しい矛盾、逆説性を示しながら共存している事を示す。