1. 第4室(全学教育棟本館C15講義室)

第4室(全学教育棟本館C15講義室)

開始時刻
1. 午後2時00分 2. 午後2時55分
3. 午後3時50分 4. 午後4時45分(終了5時30分)
司会 内容
早瀬 博範

1.死者が語る物語――“That Evening Sun”を中心に

  島貫香代子 : 京都大学(院)

2.Faulknerの小説に於けるスポーツの要素について

  海上 順代 : 東京都立産業技術高等専門学校

杉山 直人

3.“Red Leaves”におけるニューオーリンズ、ブラ・クペ、インディアン

  木下 裕太 : 首都大学東京(院)

4.公民権運動とFaulkner

  田村 理香 : 法政大学



島貫香代子 京都大学(院)

 

William Faulknerの複数の作品に繰り返し登場するQuentin Compsonが、“That Evening Sun”(“TES”)の冒頭で24歳の語り手として登場することは、これまで多くの研究者を困惑させてきた。The Sound and the Fury(SF)とAbsalom, Absalom! のQuentinは20歳前後で死亡するため、年齢上の不一致が生じてしまうのである。研究者の中には、それぞれの作品を個別に扱うHans H. Skeiなどもいるが、本発表では、これらの作品群のゆるやかな連関を認める立場を取ると同時に、“TES”の枠物語を語る大人のQuentinが死者であることが、黒人女性Nancyの運命を暗示する重要な手がかりとなることを指摘したい。

“TES”ではNancyの結末が曖昧な形で提示されているため、町を去ったはずの彼女の夫Jesusが戻ってきて彼女を殺すのか(溝に潜んでいるのか)、あるいは殺さないのか(Nancyの妄想なのか)が議論の的になってきた。しかし本発表では、数ある思い出のうち、15年前の“TES”のエピソードを回想するにいたった大人のQuentinに焦点を当てて考えてみたい。それというのも、SF で彼が自殺することに鑑みると、Nancyの結末には、実はもう一つの可能性―彼女の自殺―が垣間見られるからである。“TES”で拘置所の看守が語るように、黒人は概して自殺しないと見なされていたが、拘置所で自殺未遂を起こしたNancyが最終的にこの手段に再び訴えたとしても不思議ではないし、その結末が後に自殺する運命にある当時9歳のQuentinに大きな衝撃を与えたであろうことも想像に難くない。

Nancyの自殺の可能性を考察するにあたり、本発表では、Jesusが潜んでいるとされる、Compson家の屋敷とNancyの小屋を隔てる溝(ditch)に注目する。これは涸れ谷(gully)のようなところだと思われるが、SF には同様の溝に落ちて射殺されたNancy(おそらくCompson家の馬)のエピソードがあり、本発表の文脈では看過できない場所である。さらに本発表では、黒人音楽に度々登場するヨルダン川とこの溝の関連性についても考察する。聖書に由来するヨルダン川は、黒人にとって、隷属状態からの解放(自由の地[北部]に行く)と肉体的な解放(約束の地[天国]に行く)の両方を意味していた。“TES”との関連性が指摘されているブルース曲の“St. Louis Blues”にヨルダン川は登場しないものの、SF のQuentinがチャールズ川で入水自殺することを想起するならば、この溝は、白人世界と黒人世界の境界を体現する以上に示唆的な場所となりえるのではないだろうか。

本発表の後半では、“TES”と同様に(具体的な年齢は不明ながらも)成長したQuentinが子供時代を述懐する構成をもつ“A Justice”と“Lion”についても言及する。最終的には、これらの短編を通して、Quentinの(死者の)語り手としての意義とその限界を再考する。


海上 順代 東京都立産業技術高等専門学校

 

William Faulkner作品に見られる設定やメタファーにはgameを連想させるものが多い。この点を考えるにあたり参考となった研究書には、hunting等も含めたgameやgameを連想させる状況をスポーツの要素として論じているものがある。そうした先行研究を踏まえ、本発表ではWilliam Faulknerの小説のテキストに現れる「スポーツの要素」と、「南部に於ける男性登場人物の価値観」の関連について論じることを目的とする。そして、スポーツの要素として「fair playの精神」に注目し、Faulknerの南部社会に登場する男性キャラクターの価値観にfair playの概念が根ざしている点について論じる予定である。

発表を進めるに当たり、HawthorneからFaulknerといった主要なアメリカ文学作品のスポーツの要素について論じた研究書Christian K. Messenger著Sport and the Spirit of Play in American Fiction: Hawthorne to Faulkner (1981)で展開される“The Popular Sports Hero”、“The School Sports Hero”そして“The Modern Ritual Sports Hero”といったアメリカ文学のSports Heroのタイプの変容を参考にする。そして、この研究書の論を踏まえ、スポーツの世界に於ける「法」である「ルール」と「儀式性」の関連に注目したい。

上記の研究書から、文学作品でスポーツの要素が広い意味合いで捉えられると分かるが、本発表でもFaulknerの主要作品の様々な状況や描写に、スポーツの概念が読み込めることを指摘したい。そして、中心的登場人物となる男性キャラクターの価値観から、fair playの精神を読み取ることが出来、その価値観に基づいた彼らの言動には儀式的な部分が多いのである。

具体的に扱うFaulknerのテキストとして、年代順にThe Wild Palms (1939), The Hamlet (1940)(主にBook Two : “Eula”), Go Down, Moses (1942)の “The Bear”を予定している。これらの作品に登場する男性登場人物像を再検討することになるが、fair playの精神を論じるに当たり、アメリカ文学に見られるゲームの要素について論じた研究書Michael Oriard著Sporting with the Gods: the rhetoric of play and game in American culture (1991)を参考にする。この著書は、Faulkner作品の批評書ではないが、アメリカ文学初期の作品から現代までの作品を扱い、fair playについても言及がある。そしてそのplayとgameの論理は「儀式性」に通じる部分があり、先に挙げた三作のFaulkner小説の登場人物像を再検討する上で有益と思われる。

再検討をする対象となる登場人物としては、Harry Wilbourne, the tall convict, Labove, Ike McCaslinを予定している。彼らの言動を見ると、ある種のルールに沿って行動すること、認められる行動と認められない行動について意識的であると分かる。そして、認められる行動には、独自の形式があるかのように見なしているようである。その「ルール」や「ルール」に根ざした「形式」は、「儀式的なもの」として社会で受け入れられていると考えられるのである。そして、彼らの「ルール」や「形式」を重んじる傾向は、スポーツのfair playの精神に通じているのである。

以上の点を踏まえ、Faulkner小説に於けるスポーツの要素を、fair playの概念に焦点を当て、再検討したい。


木下 裕太 首都大学東京(院)

 

1930年にSaturday Evening Post に掲載された“Red Leaves”は、William Faulknerが名実ともに小説家として初めて評価を得た作品のひとつである。その中に登場する腕を負傷しながら沼へと逃亡し斧で腕を切断することを懇願する名前のない黒人奴隷は、ニューオーリンズ地域に以前から伝わる腕を切り落とされ沼へと逃亡するアフリカの王子Bras-Coupé(黒人奴隷)のイメージと重なるのではないだろうか。Faulknerが描く以前からこのイメージはGeorge Washington Cable やLafcadio Hearnなどニューオーリンズと関係が深い作家が小説やエッセイのなかで好んで描き、さらにはこのイメージはニューオーリンズに関わる現代作品にまで使用されているものである。これにはFaulknerが1925年からニューオーリンズに移り住んだことが大きく影響すると考える。

しかしながらFaulknerは、それまでにBras-Coupéが描かれてきた場合のような白人から逃亡する黒人奴隷という関係をインディアンと黒人の主従関係にずらして描いている。Faulkner作品におけるインディアンは、本作品にとってのみ重要な意味を持つわけではなく、のちの短編集Collected Stories of William Faulknerにおいて“The Wilderness”のセクションとして他のインディアンに関連する話と共に出版されたことや、Absalom, Absalom! においてThomas Sutpenが本作品と深く関わるインディアンから手に入れた土地が物語の中心になるなど他の作品においても重要な役割を果たしている。なによりFaulknerが本作品の続編である“A Justice”や前編にあたる“A Courtship”を描いていることからもこだわりをうかがうことができる。これにはFaulknerがニューオーリンズでの生活を始める直前に1924年にすべてのインディアンに市民権が与えられたこと、また初めてインディアンが登場する“Red Leaves”の時代設定をオリジナルのBras-Coupéが登場する(1850年代)よりも以前の1800年代初期にしたことが、アメリカ史を鑑みると大きいと考える。本発表では“Red Leaves”におけるニューオーリンズ、Bras-Coupé、インディアンのテーマを手がかりに関連作品を見渡しながら、そこに見え隠れする人種の問題を考察し、小説家Faulknerを考えたい。


田村 理香 法政大学

 

1950年代は公民権運動が本格化していった時代であった。1954年には公立学校における人種隔離を違憲としたブラウン対教育委員会裁判判決が最高裁によって下され、1955年にはローザ・パークスの逮捕をきっかけに「モンゴメリー・バス・ボイコット」運動が展開された。反人種差別運動は盛り上りを見せた。一方で、白人至上主義者たちの反発も大きく、アーカンソー州ではリトルロック事件なども起こった。

多くの反人種差別運動家が、また白人至上主義者たちが意見を述べていた。William Faulknerも人種問題に関する発言を行った一人である。Faulknerは、1949年にノーベル文学賞を受賞し、内外ともに南部の知識人として認められる存在になっていた。Faulknerは、人種隔離に反対の立場を取っていることで人種隔離を続けようとする南部白人たちから反発を受けていたが、早急に人種差別の撤廃を実現させようとする活動家に対して「いまはゆっくり進め、いまは少し待て」と訴えたことで、公民権運動の団体や白人リベラルからも批判を受けるようになった。また、「もし戦わなければならないときが来たら、ミシシッピのために合衆国を相手に戦うだろう。それが通りに出て黒人を撃つようなことだとしても」という発言によって、人種問題に対する姿勢そのものに疑問がもたれることにもなった。さらにFaulknerは、代表的な黒人雑誌Ebony に寄稿したが、“If I were a Negro.”のタイトルが示すように、高みから見下すような姿勢が感じられるこのエッセイは大いに反発を招いた。Faulknerは、白人からも黒人からも、人種差別主義者からも公民権運動家からも理解されることのない、浮いた存在となっていく。

Faulknerはなぜこのような態度を取ったのだろうか。その理由としてしばしば挙げられてきたのは、彼は南部白人男性であり、その限界を超えることができなかったというものである。しかし、Faulknerの発言は、現実の南部とはいささか乖離した場所から行われているように思われる。たとえばFaulknerは「北部人やリベラルは南部のことを知らない」と述べているが、こうした断定は、Faulknerの作品に登場する北部人を想定して行われているかのようである。Absalom, Absalom! のShreveのような人物は、たしかに、南部についての無知をしばしばさらけだしている。また、北部人はFaulknerの作品の中で他者でもある。“A Rose for Emily”のHomer BarronやLight in August のJoanna Burdenは、毒殺されてミイラにされたり、殺害された上、家に火をつけられたりするなど、不幸な目にも遭っている。そして、そのような物語を作り上げたのは、ほかならぬ作者Faulknerである。Faulknerは南部の抱える人種の問題、北部の問題、敗北感といったものを書くことによって体験し、自らの南部を構築した。公民権運動時代の発言もそうした作品の中で構築した南部を念頭に置いて行われたのではないだろうか。