1. 2.Death Comes for the Archbishop におけるフェティッシュの意義

2.Death Comes for the Archbishop におけるフェティッシュの意義

志水 智子 九州産業大学

 

Willa CatherのDeath Comes for the Archbishop (1927)においては、まだアメリカに併合されたばかりの1850年代のニューメキシコ准州の民族事情と、そこに派遣されたLatourとVaillantという二人のカトリック神父の布教の人生が描かれる。ローマ教皇により派遣される立場である以上、LatourとVaillantに与えられたポストは、カトリシズムと西欧中心主義的なイデオロギーを異教の未開地に植え付けるためのものである。しかし彼らは決して威圧的な布教者でもなければ、険しいニューメキシコの自然の中で有利な立場であるわけでもない。彼らはニューメキシコの他民族性を受け入れ、人々の信頼を得ながら、求められた場合のみ宗教的儀式を施すまでで、共存するメキシコ人やインディアンと互いに決して理解できない思考方法や世界観を認めている。そして、LatourやVaillantがかかわるさまざまな民族にとってのフェティッシュ(呪物)の存在が、敬意を払われるべきものとして描かれていることに注目したい。本発表ではこの作品におけるフェティッシュの意義について論じていきたい。

プロローグにおいてローマで贅沢な晩餐をしながら、ニューメキシコについて語る枢機卿たちは、アメリカという国に対してFenimore Cooperの小説を通して好意を寄せている程度である。この後に実際に現地で布教生活を送るLatourとVaillantの過酷な現実が描かれることで、西欧中心主義的思考を体現する枢機卿たちの異文化に対する認識の浅薄さと傲慢さがあぶり出されていく。LatourとVaillantが生活する土地は、対ヨーロッパ的存在としてアメリカと呼ばれる場ではあるが、実際にはアメリカ支配を認めないメキシコ人、スペイン系以外のグリンゴと呼ばれるアメリカ人、アコマ、ナバホをはじめとするインディアン、そして二人の神父のようなフランス人といったように、多様な民族と文化習慣が混在し主張し合う地方である。LatourやVaillantが体現するカトリシズムの世界にも、Latourが建築を志す大聖堂や、奴隷女Sadaに与える聖母の姿のついたメダル、ロザリオなど、彼らにしか価値のないフェティッシュが存在する。ペコスのインディアンは火と蛇を崇拝し、アコマのインディアンはオウムを珍重する。ペコスの白人商人Orchardが、“The things they(Indians) value most are worth nothing to us.”と語るように、白人とインディアンの価値観の根本的な違いはそれぞれのフェティッシュによって表されている。LatourとVaillantは民族間におけるフェティッシュの違いを互いに理解と翻訳が不可能な聖域と認識し、それを侵犯する意向を持たない。フェティッシュへの敬意が描かれることでLatourとVaillantは、新司教区に任ぜられた彼らの役割が必然的に帯びる、西欧中心主義的世界観をその土地の人々に植え付け、彼らをその権威のもとにサバルタン化させる手先となることから免れている。さらにフェティッシュの存在は、歴史的には後にサバルタン化される人々の主張を代弁し、また「アメリカ」という包括的な国家概念の存在がいかに空虚で曖昧なものであるかを示唆する視座を与えてくれるのである。