1. 3.愛のアレゴリー/アレゴリーへの愛――越境する“Rappaccini’s Daughter”

3.愛のアレゴリー/アレゴリーへの愛――越境する“Rappaccini’s Daughter”

高橋 利明 日本大学

 

フランス人作家のオーべピーヌ氏が、イタリアのパドバを舞台にしてフランス語で書いた物語を、アメリカ人作家のHawthorneが英語に翻訳して紹介するという語りの枠組みから我々が気づくことは、〈越境〉の所作が、"Rappaccini's Daughter"(1844)全篇に通奏低音の如く鳴り響いていることである。擬態としての翻訳の越境性に始まり、ジョバンニのイニシエーションとしての生地ナポリからパドバ大学への越境的入学、続くジョバンニのラパチーニの庭園への越境、そして、彼のベアトリーチェの心への越境と、それによって惹起される愛とその後の彼の不信によるベアトリーチェの天国への越境で終わるという具合である。そもそも越境とは、局面Aと局面Bの境界線を越える行為であるが、大切なことはAからBへ、あるいはBからAへの転移の関係性なのである。そして、その関係性を現前化している言葉こそが、 "sympathy"(「共感」)なのであり、この作品はこの「共感」をめぐるアンビバレンスを探究しているように思われる。"sympathy" とは、"feeling with" を意味する。よって、それは他者、あるいは他の事物への何がしかの思いから発生する感情であることがわかる。この感情があってはじめて人間は人間としての精神生活を送ることができるのだ。

Hawthorne文学のキーワードである "sympathy" は、この"Rappaccini's Daughter"という作品においては、ラパチーニ博士の"fearful sympathy"という形で表出している。"fearful"(「恐怖の」)という形容詞が、否定的な「共感」の用いられ方を明示しているのだが、Hawthorneの作品はそのようなマイナスの「共感」の宝庫である。それはまるでその事実が人生の真実なのだと言わんばかりだ。科学的知識に取りつかれ、それが神だと信じ込み、ついには自分を神だと錯覚したラパチーニ博士には、人間が作り出した善悪の観念に照らせば救いはないのかもしれない。しかし、翻って人間のレベルで想定される善悪の観念とは、小さく脆弱なものなのではなかろうか。神の目に、あるいは超巨視的な目に何が善で何が悪と映っているのかは、地上の人間にはわからないのだ。

人類の歴史は、"nature" と "art" の相克の歴史だとも言えるが、両者を相渉らせてきたものこそが、「共感」なのであり、Hawthorneはその「共感」の越境性の意味を〈毒薬〉の伝染性のメタファーで捉えようとしたのだ。そして、その「共感」が「恐怖の共感」に陥る瞬間を捉え描写することによって、作家は、"Rappaccini's Daughter"という作品自体が、表層的なキリスト教的倫理を越えて究極的にその善悪の観念をも越境するものだと考えたと思われる。本稿では、作家自身の分身であるオーべピーヌ氏の「アレゴリーへの根深い愛」("an inveterate love of allegory")こそが、ジョバンニとベアトリーチェの愛の本質的な在り様を、その挫折を通して逆説的に証明していること、さらにはHawthorne自身が善悪の観念を越えた人間の〈共感〉の本質的な在り様を探究していることを実証したい。愛はアレゴリーでしか語れない。愛のアレゴリーの意味を越境する"Rappaccini's Daughter"という作品のアレゴリーへの愛の中に見出したい。