1. 4.個人になることの憂鬱――ホーソーン初期の短編小説を読む

4.個人になることの憂鬱――ホーソーン初期の短編小説を読む

成田 雅彦 専修大学

 

19世紀初期のアメリカは、個人主義勃興の時代である。Emersonは、1820年代を顧みつつ、この時代人々は「自意識的」になり、社会の繁栄よりもむしろ個人の内面に気を配るようになったと述べている。1830年代にアメリカを訪れたTocqueville もまた個人主義という「新たな考え方」の隆盛に目を見張ったのであった。人が社会の規範に盲従するのではなく、内面からの声に耳を傾ける。この時代は、そういう時代だったというのである。しかし、これは見かけほど単純な事態ではなかった。かのコンコードの哲人のごとく内面に神が宿ることを疑わない人間ならばいざ知らず、普通の人間たちにとって個人を独立した価値として生きるということは大きな不安と背中合わせであった。そもそも、個人は信じるに値するものか。それほど強いものか。伝統的なキリスト教道徳の中で人間が堕落した存在だと教えられてきた人々にとって、これはいわば価値の大転換だったのである。

考えてみると、これまで個人主義は一方的に賛美されるのみで、その影の側面はあまり議論されずに来たのではないか。しかし、その闇は深いのである。そこで、この発表では、Hawthorneの初期短編小説をこの個人主義に対するアンチテーゼとして読んでみたい。"Young Goodman Brown"、"The Gentle Boy"そして"My Kinsman, Major Molineux"を取り上げ、そこに「個人になることの憂鬱」の系譜を探ろうというのがその目論見である。言うまでもなく、これらの作品はHawthorne作品の中でも最も有名なものであり、アメリカ文学アンソロジーには必ず収められる作品である。様々な方法論によって論じられつくされたかに見えるこれらの作品を新たな解釈の下に論じられるとも思えないが、それでも発表者はこれらの作品の中で若きHawthorneは一貫して個人になることの不安を論じ、「内面からの声」というひどく神聖な響きを持つ衝動に対する疑念を物語として提示したと考える。それをできるだけ細く見ていくことにしたい。

ある夜、新婚の妻フェイスを残して一人森深く出かけて行ったブラウンを突き動かしたものは何か。魔女狩りとのかかわり、宗教的世界の崩壊、青年の性的体験にともなう幻惑。そうした側面からブラウンの動機は論じられてきたし、それらはまったくその通りなのだが、まず何よりもブラウンは個人の内面の声の衝動に従った人物なのである。そして、この物語は、この内面の声に導かれて精神の深みに迷い込み、身動きが取れなくなった青年の悲劇に他ならない。他の二作品もまた表面的にはまったく違うテーマの作品に見えるが、実はこの内面の声が多方面から問題にされているのである。Hawthorneという作家は、人が個人としては独立できず、人との絆によって人になるしかないと信じた人である。こうした人間観がこの個人主義の時代に放った異彩を追いかけてみたい。