1. 第1室(全学教育棟本館S10講義室)

第1室(全学教育棟本館S10講義室)

開始時刻
1. 午後2時00分 2. 午後2時55分
3. 午後3時50分 4. 午後4時45分(終了5時30分)
司会 内容
宮川  雅

1.Dr.Templetonのヒル――“A Tale of the Ragged Mountains”とメスメリズム

  宮澤 直美 : 京都産業大学

2.The Marble Faunにおけるローマの病

  田島 優子 : 九州大学(院)

入子 文子

3.愛のアレゴリー/アレゴリーへの愛――越境する“Rappaccini’s Daughter”

  高橋 利明 : 日本大学

4.個人になることの憂鬱――ホーソーン初期の短編小説を読む

  成田 雅彦 : 専修大学



宮澤 直美 京都産業大学

 

Edgar Allan Poeの作品には骨相学を始め様々な擬似科学が登場してくる。なかでも、“A Tale of the Ragged Mountains” (1844)、 “Mesmeric Revelation” (1844)、“The Facts in the Case of M. Valdemar” (1845)といった作品は、当時流行していたメスメリズム、あるいは動物磁気学を強く意識した作品である。18世紀後半のパリで、Franz Anton Mesmer (1733-1815) によって提唱されたメスメリズムは、メスメリストと患者との間に“rapport”を形成し、睡眠状態になった患者に“vital fluids”を送り込むことで、病気を治すというものだ。フロイト心理学にも通じるこの擬似科学は、病気を治すだけでなく、人の心の中に入り込み精神的交流を可能にすると信じられていた。

本発表では、“A Tale of the Ragged Mountains”を中心に、Poeの編み出すメスメリックな作品世界と創作論を再検証したいと思う。患者であるBedloeとの間に特殊な信頼関係を築いたDoctor Templetonは、クライマックスで、毒素のあるヒルを医学用のヒルと取り間違え、Bedloeに処方し死に至らしめる。Bedloeの死によって過去の人物であるOldebとBedloeの奇妙な一致はより完成されたものへと近づくのだが、これを全く悪意のない医療ミスと解釈するかどうかは読者に委ねられているように思う。Doctor Templetonに殺意はなかったのだろうか。ピューリタン的言説が、ヒルや蛇を悪魔の象徴と考えてきた伝統に鑑みると、ヒルはDoctor Templetonの心の中に誘惑として忍び寄り、彼を殺人鬼へと誘った黒い影だと解釈することも可能だ。解釈の可能性の中に読者を取り残すことこそが、読者をメスメライズするためにPoeが仕組んだ効果なのかもしれない。

1827年のCharlottesvilleという具体的な場面設定をしたり、擬似科学を用いたり植字ミスを導入したりと本作品は一見、Poeの美女再生譚にみられるようなロマン主義から距離を置き、超現実的な出来事をいかにリアルに本物らしく描き出すかを狙っているようにも思える。しかし、ヒルに象徴されるDoctor Templetonの心に潜む影と、不合理なまでに重なり合う「偶然」の数々は、超現実的な世界を不気味に照らし出す。このような作品世界を作り出すのに、メスメリズムがどのような役割を担っているのか、また、Poeがどのような効果を狙って作品に登場させているのか考察したいと思う。

Nathaniel Hawthorneについての書評に、“Review on Nathaniel Hawthorne's Twice-Told Tales”(1842)がある。このなかで、“single sitting”で読み切れる作品の短さが読者を作品世界に取り込むためには重要であると主張したPoeの創作論からは、読書体験を通じて、読者を“control”し、メスメリズム的な効果を読者に与えることを、ひとつのもくろみにしている様子が伺える。本発表では、“A Tale of the Ragged Mountains”から出発し、Poeの創作論とメスメリズムとの関係性についても考察したいと思う。


田島 優子 九州大学(院)

 

作家Nathaniel Hawthorneがイタリアを舞台として執筆した長編小説The Marble Faun にはローマの街中にただよう悪臭や不衛生さに関する描写が随所に見られ、これはDonatelloの故郷であるモンテ・ベニといった自然豊かな地域とは顕著な対照をなしている。この醜悪なローマの光景とともにしばしば作中で言及されるのが、19世紀にイタリアでも流行していたマラリアである。「マラリア」の語源がイタリア語の"mala aria"(悪い空気)であることからも分かるように、マラリアが蚊によって媒介されるということが19世紀末に解明される以前、この感染症は有害な物質を含む空気によってもたらされるものなのだと信じられていた。The Marble Faun においても、登場人物たちの健康を損なうものとして作家が嫌悪感をこめて描くのは、ローマの汚染された空気である。

ローマの公衆衛生やマラリアをはじめとする感染症の問題は、作家の伝記的事実に照らし合わせた上でも重要である。というのも、イギリス領事官を辞職したのちにHawthorneが家族とともにイタリアを訪れた際、娘のUnaがマラリアとみられる熱病に罹患してしまい、一時は危篤状態にまで陥っているからだ。『大理石の牧神』はHawthorneが旅先で娘の病状を気遣う日々の中で執筆した作品であり、作中にはその懸念が色濃く投影されているのである。

The Marble Faun においては、マラリアを引き起こすとされていた瘴気は、ローマの内包する精神的な堕落と強く結びつきを持つように思われる。例えばMiriamの不機嫌さや気まぐれな感情の変化といった「病的な兆候」は、ローマの不健全な大気にその一因があるかもしれないと推測されており、またModel殺人直前のDonatelloに対しMiriamは「陰鬱で病的な」ローマが彼の本来もつ喜びを奪い去ってしまったとしている。また殺人を犯した翌日に震えているDonatelloを見て、Miriamは「マラリアにかかったかのようだ」と述べてもいる。興味深いことに語り手を除けば、多くの場合マラリアという病への懸念を示すのは、過去に罪に加担していると考えられるMiriamである。高い塔の上に住み、ローマの不衛生さや罪悪に対して明らかに盲目であるHildaは、夏の間もマラリアの猛威を恐れることなく、主要登場人物の中では唯一ローマに留まっているのだ。

以上の点をふまえて、本発表ではThe Marble Faun に見られるローマの腐敗した空気やマラリアといった病の描写に着目することで、そこに表れるHawthorneの道徳観を読み取り、この作品に関する新たな解釈を導き出していきたいと思う。


高橋 利明 日本大学

 

フランス人作家のオーべピーヌ氏が、イタリアのパドバを舞台にしてフランス語で書いた物語を、アメリカ人作家のHawthorneが英語に翻訳して紹介するという語りの枠組みから我々が気づくことは、〈越境〉の所作が、"Rappaccini's Daughter"(1844)全篇に通奏低音の如く鳴り響いていることである。擬態としての翻訳の越境性に始まり、ジョバンニのイニシエーションとしての生地ナポリからパドバ大学への越境的入学、続くジョバンニのラパチーニの庭園への越境、そして、彼のベアトリーチェの心への越境と、それによって惹起される愛とその後の彼の不信によるベアトリーチェの天国への越境で終わるという具合である。そもそも越境とは、局面Aと局面Bの境界線を越える行為であるが、大切なことはAからBへ、あるいはBからAへの転移の関係性なのである。そして、その関係性を現前化している言葉こそが、 "sympathy"(「共感」)なのであり、この作品はこの「共感」をめぐるアンビバレンスを探究しているように思われる。"sympathy" とは、"feeling with" を意味する。よって、それは他者、あるいは他の事物への何がしかの思いから発生する感情であることがわかる。この感情があってはじめて人間は人間としての精神生活を送ることができるのだ。

Hawthorne文学のキーワードである "sympathy" は、この"Rappaccini's Daughter"という作品においては、ラパチーニ博士の"fearful sympathy"という形で表出している。"fearful"(「恐怖の」)という形容詞が、否定的な「共感」の用いられ方を明示しているのだが、Hawthorneの作品はそのようなマイナスの「共感」の宝庫である。それはまるでその事実が人生の真実なのだと言わんばかりだ。科学的知識に取りつかれ、それが神だと信じ込み、ついには自分を神だと錯覚したラパチーニ博士には、人間が作り出した善悪の観念に照らせば救いはないのかもしれない。しかし、翻って人間のレベルで想定される善悪の観念とは、小さく脆弱なものなのではなかろうか。神の目に、あるいは超巨視的な目に何が善で何が悪と映っているのかは、地上の人間にはわからないのだ。

人類の歴史は、"nature" と "art" の相克の歴史だとも言えるが、両者を相渉らせてきたものこそが、「共感」なのであり、Hawthorneはその「共感」の越境性の意味を〈毒薬〉の伝染性のメタファーで捉えようとしたのだ。そして、その「共感」が「恐怖の共感」に陥る瞬間を捉え描写することによって、作家は、"Rappaccini's Daughter"という作品自体が、表層的なキリスト教的倫理を越えて究極的にその善悪の観念をも越境するものだと考えたと思われる。本稿では、作家自身の分身であるオーべピーヌ氏の「アレゴリーへの根深い愛」("an inveterate love of allegory")こそが、ジョバンニとベアトリーチェの愛の本質的な在り様を、その挫折を通して逆説的に証明していること、さらにはHawthorne自身が善悪の観念を越えた人間の〈共感〉の本質的な在り様を探究していることを実証したい。愛はアレゴリーでしか語れない。愛のアレゴリーの意味を越境する"Rappaccini's Daughter"という作品のアレゴリーへの愛の中に見出したい。


成田 雅彦 専修大学

 

19世紀初期のアメリカは、個人主義勃興の時代である。Emersonは、1820年代を顧みつつ、この時代人々は「自意識的」になり、社会の繁栄よりもむしろ個人の内面に気を配るようになったと述べている。1830年代にアメリカを訪れたTocqueville もまた個人主義という「新たな考え方」の隆盛に目を見張ったのであった。人が社会の規範に盲従するのではなく、内面からの声に耳を傾ける。この時代は、そういう時代だったというのである。しかし、これは見かけほど単純な事態ではなかった。かのコンコードの哲人のごとく内面に神が宿ることを疑わない人間ならばいざ知らず、普通の人間たちにとって個人を独立した価値として生きるということは大きな不安と背中合わせであった。そもそも、個人は信じるに値するものか。それほど強いものか。伝統的なキリスト教道徳の中で人間が堕落した存在だと教えられてきた人々にとって、これはいわば価値の大転換だったのである。

考えてみると、これまで個人主義は一方的に賛美されるのみで、その影の側面はあまり議論されずに来たのではないか。しかし、その闇は深いのである。そこで、この発表では、Hawthorneの初期短編小説をこの個人主義に対するアンチテーゼとして読んでみたい。"Young Goodman Brown"、"The Gentle Boy"そして"My Kinsman, Major Molineux"を取り上げ、そこに「個人になることの憂鬱」の系譜を探ろうというのがその目論見である。言うまでもなく、これらの作品はHawthorne作品の中でも最も有名なものであり、アメリカ文学アンソロジーには必ず収められる作品である。様々な方法論によって論じられつくされたかに見えるこれらの作品を新たな解釈の下に論じられるとも思えないが、それでも発表者はこれらの作品の中で若きHawthorneは一貫して個人になることの不安を論じ、「内面からの声」というひどく神聖な響きを持つ衝動に対する疑念を物語として提示したと考える。それをできるだけ細く見ていくことにしたい。

ある夜、新婚の妻フェイスを残して一人森深く出かけて行ったブラウンを突き動かしたものは何か。魔女狩りとのかかわり、宗教的世界の崩壊、青年の性的体験にともなう幻惑。そうした側面からブラウンの動機は論じられてきたし、それらはまったくその通りなのだが、まず何よりもブラウンは個人の内面の声の衝動に従った人物なのである。そして、この物語は、この内面の声に導かれて精神の深みに迷い込み、身動きが取れなくなった青年の悲劇に他ならない。他の二作品もまた表面的にはまったく違うテーマの作品に見えるが、実はこの内面の声が多方面から問題にされているのである。Hawthorneという作家は、人が個人としては独立できず、人との絆によって人になるしかないと信じた人である。こうした人間観がこの個人主義の時代に放った異彩を追いかけてみたい。