1. 政治的言説としての「アヴァン・ポップ」再考

政治的言説としての「アヴァン・ポップ」再考

椙山女学園大学長澤 唯史

 

芸術的前衛は、つねに政治的前衛である。20世紀の前衛は資本主義システムを支えるブルジョア的価値観と、その内部で芸術を商品化する文化産業をいかに脱臼させるかという戦いであった。資本とメディアの共謀関係への抵抗戦略である「アヴァン・ポップ」ももちろん、この意味での「前衛」運動である。

「80年代までの「俗流ポストモダン」ともいうべき安易な相対主義は、結果的に無責任と無根拠への居直りを助長し、その後のネオリベラリズムと市場原理主義という抑圧的システムの形成へと加担してしまった。本来は抵抗文化として誕生したはずのポップカルチャーも、今では抵抗の「ポーズ」を売り物にし、資本とメディアにとって不可欠の商品となっている。資本主義による芸術の商品化とメディアによる意識形成への疑問が、アヴァン・ポップの出発点である」かつて私は笙野頼子を論じながら、ラリイ・マキャフリイのアヴァン・ポップをこのように定義したが、今にして思えば、そこでは「永遠の抵抗的思想」とでも呼ぶべき60年代的価値観が根底に横たわっていることを、十分に論じるには至っていなかった。さらに言えば、アヴァン・ポップはその「60年代」がすっかり骨抜きにされ空虚なイディオムと化した80年代に、それでもかつての理想の、可能性の残滓でも見出してみたいという願いが生み出した戦略、というべきかもしれない。

こうした反省から改めてアヴァン・ポップの実践例を眺めまわしてみた時に、Eugene Chadbourne や Captain Beefheart の音楽の根底に横たわるアメリカのルーツ・ミュージックへの関心とある種の諦念(それは Frank Zappa にもつながるかもしれない)が、ありえたかも知れない別の60年代ロックの世界を描く Lewis Shiner の Glimpses (1993) や、メディア的記憶の作りだす悪夢的な風景の中を永遠に彷徨う Stephen Wright の Going Native (1994) などと通底し、「ポスト60年代」を芸術はどう生き延びるべきかという問いかけを前景化してくる。

本発表は体系的な文化論でも作家論でもないが、上記を始めとする60年代から90年代の音楽と文学作品の作りだす「風景」とも言うべきものを可視化できればと思っている。