1. シンポジアムII (九州支部発題)(全学教育棟本館S30講義室)

シンポジアムII (九州支部発題)(全学教育棟本館S30講義室)

メルヴィルと戦争

司会・ 講師
福岡大学 大島由起子
メルヴィルとピーコット三部作
講師
和洋女子大学 佐久間みかよ
メルヴィルの抱く国家観と戦争
鹿児島大学 竹内 勝徳
独立戦争とメルヴィル
中央大学 高尾 直知
メルヴィルのBattle-Pieces



Herman Melvilleは、兵士として戦場に赴いた経験こそないものの、親族には軍人もおり、戦争と無縁ではない。ポリネシアのタイピー渓谷では仏軍に殺される羽目になったかもしれず、脱走水夫ながら帰国を果たしたい一心から海軍に飛び込みもした。後には、南北戦争を見学に出かけて危ない思いもしている。こうしたことは諸作品にどう影を落としているだろうか。

メルヴィルの作品世界では、復讐の連鎖という主題、激烈さが随所にみられる。戦艦を舞台としたWhite Jacket、独立戦争を描いたIsrael Potter、南北戦争後のアメリカへの強いメッセージを込めたBattle-Pieces、晩年にも、かつて戦艦で出会った理想の男性に捧げたBilly Budd, Sailor (An Inside Narrative)や海軍水夫をも描いたJohn Marr, and Other Sailors所収の詩も書き、戦艦時代に想いを馳せている。

シンポジウムでは戦争観再考察で新たに見えてくるメルヴィルの国家観、人種間、人生観を探りたい。佐久間がメルヴィルと諸戦争について述べた後、主たる対象となる戦争の年代順に、大島がピーコット戦争、竹内が独立戦争、高尾が南北戦争を中心に問題提起をさせていただく。聴衆の皆様との活発な議論をとおしてメルヴィル理解が深まることを切に願っている。



福岡大学 大島由起子

 

コネチカットの先住民ピーコット族は、英軍によりミスティック砦を急襲されたことから始まったピーコット戦争(1636-1637年)で「絶滅」した。この戦争は小規模ながら、アメリカ合衆国における先住民殲滅への動きを占うものであった。メルヴィルは、Moby-Dick、Israel Potter、Clarel でピーコット族に言及している。本発表ではこの三作をピーコット三部作として主な検討対象としたい。Moby-DickとClarel では、ピーコット族が作品大枠に潜み、復讐の連鎖という主題を担い、両作品にアメリカンゴシック的様相を呈させているようである。Israel Potter では、作者の本部族への同情が窺える。本発表では、三部作として乱反射させることで浮かびあがってくる人種観を探る。

また、Timothy Dwight、Catharine Maria Sedgwick、William Apessといったほぼ同時代の作家のピーコット観と比べてメルヴィルのピーコット観を相対化した後に、メルヴィルの特異性の源を、彼が若き日に訪れた地球の裏側での体験に求めたい。ポリネシアのタイピー族と北米のピーコット族は、いずれも力があり誇り高く、あたり一帯で唯一、白人に従わなかった点、悪魔表象された点が似ている。〈食人種〉タイピー族のただなかで生殺与奪権を握られていた若き日に、メルヴィルは、他のゆるぎない立場の白人観察者とは違う下からの目線を培った。しかもタイピー族の魅力も知ってしまった。そうしたメルヴィルには、〈人種的他者〉を白人に敵対的だというだけで悪魔だとは短絡できず、悪魔表象を疑う目を持つ契機となったのではなかっただろうか。であってみれば、こうした人種観はひいては、フロンティアの向こう側にいる北米先住民への想像力にも影響せずにはすまなかったことを提起したい。


和洋女子大学 佐久間みかよ

 

ドイツの思想家Carl Schmittは、『獄中記』(Ex captivitate salus: Erfahrungen der Zeit 1945-1947 )で「私はjus publicum Europaeum(ヨーロッパ公法)の最後の自覚的代表者であり、実存的意味において最後の教師・研究者である。私はその終末を、ベニート・セレーノが海賊船で航海したような仕方で経験した」と記している。二つの世界大戦を経てシュミットが自分の国家意識はもはや語れない状態である比喩としてメルヴィル作品を引用していることは興味深い。なぜなら、メルヴィルも、シュミットとは別の意味で語り得ない国家意識を持っていたと考えられるからである。南北戦争後出版したBattle-Pieces は、戦争のドキュメンタリー的作品であるといわれ、またその最後に付された「補足」(“Supplement”)はメルヴィル研究者の間でも批判が多い。しかし、ここには、語り得ぬ国家意識と戦争観を抱くメルヴィルが、真実を語り得ない囚われのBenito Cerenoのように、というより現代的な解釈に従えば、むしろ真実を語り得ないBaboのように表されているのではないだろうか。

現代のレトリックで使う正戦のみならず、聖戦という言葉が疑いなく使われていた19世紀を生きたメルヴィルにとっての戦争とは何であったのか。メルヴィルは、Moby-Dickにおいて、戦争状態を白鯨という敵を相手にするAhab船長に煽動される船員たちの様子として鮮烈に描いた。その後、南北戦争を経験したメルヴィルがあらわしたBattle-Piecesにおいて、戦争と個人の問題は、国家と個人の関係として捉え直され、メルヴィルの国家に対する相反する思いは次第に深まっていくと考えられる。Battle-Piecesは、南部という地域の国民を異質なものと捉えつつ、異質なままに国民国家として想像しようという試みであるといえる。その際、浮かび上がる地域や境界の問題は、戦争の問題と深く結びつき、メルヴィルにアメリカという国家の形態を考察する機会を与えたと思われる。法による支配の問題を描いたBilly Buddは、メルヴィルの国家観の考察の延長線上におく時、帝国的国家の危惧を描いているのではないだろうか。こうした経緯を追っていくことで、メルヴィルと戦争について再考していきたい。


鹿児島大学 竹内 勝徳

 

19世紀の作家であるメルヴィルの作品では、しばしば18世紀末の世界が描かれる。Israel Potter はアメリカの独立戦争を描いているし、“Benito Cereno”は1799年の話である。Billy Budd の時代設定は1797年である。これらの物語が、アメリカの独立(1776年)から始まり、フランス革命(1789年)、ハイチでの黒人政権の樹立(1790年)、アイルランド大蜂起(1798年)へと続くいわゆる「大西洋革命」の時代にマッピングされていることを無視する訳にはいかないだろう。

イズラエルはアメリカからフランス、イギリスへと移動する中でアメリカ独立を支持するイギリス人らに出会う。“Benito Cereno”では、スペインの奴隷船で反乱を起こした黒人奴隷Baboが、アメリカ人船長Delanoの黒人に対する先入観を浮き彫りにする。ビリー・バッドはアメリカ独立の機運を作ったThomas Paineに由来する商船からイギリス軍艦に移籍するが、スピットヘッドやノアの反乱を再発させないよう船上で警戒が強まる中、反乱の首謀者として誤認される。物語内では触れられないが、このスピットヘッド、ノアの反乱は、アイルランド大蜂起を企てたユナイティッド・アイリッシュメンによって仕掛けられたとされている。そのビリーが “a Catholic priest striking peace in an Irish shindy”に譬えられている。メルヴィルは、一連の作品において、大西洋周辺の国境を超え、出身地に関係なく、様々な支配に苦しみながら権力と戦う人々の姿を、物語の前景、背景にわたり描いたと言える。

19世紀中葉に入ると、アメリカ合衆国は領土拡大へと邁進し、徐々に帝国主義的性格を帯びていった。もう一つのイギリスと化しつつあったのだ。その時代に、帝国主義的な観点では捉えきれない、しかし、この国家の成立基盤を作った大西洋革命の脱中心的な力学を描くことは、独立の意味を再定義し、同時代の政治的枠組みを問い直すことに繋がる。本発表では、こうしたメルヴィルによる戦史の読み替えについて考えると共に、同時代の領土拡大主義プロパガンダとの対比を試みる。


中央大学 高尾 直知

 

メルヴィルのBattle-Pieces については、近年実際の南北戦争の文脈に留まらず、より広い視点から議論がおこなわれるようになってきた。Dennis BertholdのAmerican Risorgimento (2009)がイタリア革命とのつながりからこの詩集を論じるかと思えば、Robert S. Levineらの編になるFrederick Douglass and Herman Melville (2008)では、奴隷廃止運動家ダグラスとのつながりが論じられ、またLarry J. Reynoldsはこの詩集にあらわされた思想と後期Hawthorneの戦争観との類似を指摘する(Righteous Violence [2011])。Bertholdが語るように、比較的散文作品に重きが置かれるメルヴィル研究のなかにあって、詩作に注目することがこのように新たな文脈を生みだすだろうことは想像に難くない。

自然はひとの営為に対して絶対的に無関心であり、ひとはたがいに融和することでその無関心に対抗する以外に生きのびる道はない。わたしは以前、このようにこの詩集におけるメルヴィルの詩想を論じた。その論旨はいまも変わらないが、昨今の文脈の伸張に応じて、持論の可能性を試してみたいと思う。メルヴィルは、南北戦争の「予兆」として、絞首刑台のJohn Brownを幻視するが、ブラウンの蛮行の背景には、レイノルズやEvan Cartonも語るような東部知識人らの思想潮流が影を落としていることは間違いないし、そこにはイタリア統一運動の影響を見ることができる。また、ダグラスもブラウンとは緊密な関係を持っていた。また、途絶えてしまったホーソーンとの関係が、メルヴィルの戦争観にどう関わっているかも興味深い。ホーソーンは、南北戦争中にも批判的文章を発表していた。その中では、ピューリタン的伝統を奴隷制の存在に密接に関わるものとしているが、そこにもピューリタン的系譜を持つブラウンの存在が暗示されているかに見える。こう見てくると、メルヴィルにおける戦争観の裏には、ブラウンの体現するアメリカ例外主義と、先の自然の無関心というテーマの結びつきが見え隠れしている。本発表では、Battle-Pieces から、いくつか代表的な詩を選んで解釈を試みながら、そのような歴史的文脈においたメルヴィルの戦争観を提示したい。