1. ポストモダンSFの修辞学―ノースロップ・フライとアイロニーの批評

ポストモダンSFの修辞学―ノースロップ・フライとアイロニーの批評

高橋 哲徳

 

Northrop FryeはAnatomy of CriticismにおいてSFをロマンスに分類している。行動能力において人間一般に優越する主人公の造型、願望充足的要素などに鑑みれば、この定義は広くSF一般に当てはまると言える。また彼はThe Secular Scriptureにおいて、ロマンスを「投影」と「回復」に分割し、過去の再興を志向する前者とは異なり、資本主義体制下において未来の展望と共に過去を異化する後者に特別な意義を見出す。こうした議論は、Sigmund Freudの芸術論、それを発展させたFredric Jamesonの願望充足論、Darko SuvinのSF原論などとも関わるものであり、ロマンスとしてのSFという問題はさらなる検討が必要であるように思われる。

他方、1957年出版のAnatomy of Criticismは、Jamesonによる系譜学的議論に基づけば最初期の、ポストモダニズム批評の一例だと言える。実際、第一エッセイでは、確定された五つの文学様式の循環的再利用が論じられ、第四エッセイでは、「解剖」というジャンルが自己言及的に導入される一方、「告白」においては現実と虚構という対立的二項が結合され、「小説」は複数のジャンルの混合体として分析されている。これらはまさに、Philip K. DickやKurt VonnegutによるSFを含む、ポストモダン文学の特質に関わるものであり、その再検討に際してもFryeの洞察は参照に値するだろう。

20世紀文学批評を新批評から新歴史主義へ、文学テクストの内部から外部へという流れとして概括した場合、Fryeの批評は神話中心主義的な文学テクスト一元論として、ポストモダニズムもシニシズムと閉塞の美学として限定的に理解されがちだ。しかし、ポストモダンSFと共にFryeを再読する時に見えてくるものは、中心化や一元化とは対極的な側面、つまり、文学様式名でもある「アイロニー」の問題系に他ならず、それはまた理論の閉塞を形式的かつ歴史的に阻むものでもある。ポストモダニズムやFryeの限界を批評史的現実とする見解に、われわれが現実だと思っていることは実は幻想ではないのかというDick的な予感を対置しつつ、本発表では、Fryeの批評とポストモダンSFをめぐる諸問題と、アイロニーの批評史的意義について考えてみたい。