1. シンポジアムII (東北支部発題)(2号館 2301室)

シンポジアムII (東北支部発題)(2号館 2301室)

開始時刻 午後1時30分〜4時30分

ポストモダニズム、SF、批評

司会・ 講師
八戸工業大学 高橋 史朗
Philip K. Dickの異世界
講師
東北工業大学 高橋 哲徳
ポストモダンSFの修辞学―ノースロップ・フライとアイロニーの批評
講師
海上保安大学校 中山 悟視
再演されるポストモダン―Vonnegut、SF、メタフィクション



SFがポストモダニズムの範例となる文化的表象であるとは、M. Keith Bookerの言を待つまでもなく、多くの批評家がかねて気がついてきたことであろう。第一、文字通り考えれば、未来を描くことなしに、ポストモダンな――つまりは現代の次の時代に起こる――事象を取り扱うことはできないはずだ。たとえ、モダンあるいはモダニズムの後に続く文化あるいは思潮という意味で、ポストモダンやポストモダニズムという場合であっても、それを思考するのであれば我々の価値観を形成するイデオロギーを客観視しなければならないのだから、我々の今いる時間からの超克が必要となることに変わりはない。ポストモダンやポストモダニズムとSFの親和性は、因果関係や経験則、経済法則といったモダンの精神が当然視する規範から、我々を逸脱させようとするところにある。

しかし、そうであるからといってポストモダンSFが、逸脱の限りを尽くすわけではない。本シンポジアムで取り扱うであろう諸作品でも、登場人物たちは多くの場合、我々が知っている規範に基づいて行動し、思考する。彼らが暮らす世界でも、花瓶を床に落とせば割れるし、労働者より経営者のほうが裕福である。我々にとって新奇な事物は、多くの場合テクノロジーの成果によって生み出されたと説明されており、決して魔法や奇跡によってもたらされているのではない。SFが一般にScience Fictionと解されることが多いのは、それがファンタスティックではなく科学的な理由付けのある世界を描くからである。別言すれば、SFは因果律や科学主義というモダンの思考から切り離され得ないことを意味している。

同様に、ポストモダニズムが、モダニズムとは全く別次元の芸術的観点であると考えることはできない。かつて旧弊を打破しようとしていたモダニズム建築が、やがて流行の一部となり、ブルジョワジーにもてはやされることによって、そのラディカリティを失った結果、ポストモダン建築が注目されたことを振り返れば、他のあらゆる芸術思潮がそうであったように、ポストモダニズムもまたモダニズムの批判であると同時にその後継でもある。

本シンポジアムでは、ポストモダニズムの立場を表象するシネクドキとしてのSFならびに批評理論を取り上げて考察する。もちろん、個々の発表では特定の作品や批評を扱うことになるが、シンポジアム全体を通じてポストモダニズムを幅広く捉え直すことを目標としたい。



高橋 史朗

 

Philip K. Dickは多産の作家であって、かつ、一つひとつの作品にも読者の関心をかきたてるような問題意識が詰め込まれているが、同時にそれらが複数の作品で繰り返されることに創作上の特徴がある。例えば、戦争とモダニティ(ナショナリズム)、絶対的な悪や宇宙的意思と人間の(無力さの)対峙や現実(本物)と虚構(偽物)の差異の曖昧化、精神異常やドラッグの使用による幻想空間を、Dickは長期にわたって繰り返し取り上げてきた。

このようなDick作品の数多くが共有するテーマの中に異世界がある。そこに登場する人物が暮らしているのは、SFらしい未来の世界である。しかし、Dick作品の多くには、それと一線を画する奇妙な空間がさらに描き加えられている。The Man in the High CastleにおけるGrasshopper Lies Heavyの物語世界やThe Three Stigmata of Palmer Eldrichでドラッグユーザーが耽溺している幻想空間、Ubikのhalf-liferたちの世界、Flow My Tears, the Policeman SaidでJason Tavernerが遭遇する奇妙な状況は、その代表例である。

ところで、Dick作品の登場人物は、そのような彼らにとっての異世界を単に経験するだけではなく、推理小説の探偵のように、自分たちの眼前にある奇妙な状況を「解釈」しようとする。Dick作品の読者は、異世界譚の中にあるもう一つ(あるいはそれ以上)の異世界についての解釈のプロセスを登場人物たちと共有するのである。

ただし、読者が解釈するのは、現実に対する異世界ではなく、あくまでもPrimary Textの中に生じているSecondary Textである。この入れ子構造は、Kurt Vonnegutの作品に登場するKilgore Troutの手になるフィクションと相通ずるいかにもポストモダンなメタフィクションではあるものの、そうであるが故に、当時Dickが得ていた文学観を把握する糸口になると思われる。そこで本発表では、Dickの抱えた問題意識とポストモダンSFの典型的なスタイルとの関係性と、ポストモダンの潮流を俯瞰できる現在のわれわれに黄金期のDick作品が何を投げかけているのかについて考察したい。


高橋 哲徳

 

Northrop FryeはAnatomy of CriticismにおいてSFをロマンスに分類している。行動能力において人間一般に優越する主人公の造型、願望充足的要素などに鑑みれば、この定義は広くSF一般に当てはまると言える。また彼はThe Secular Scriptureにおいて、ロマンスを「投影」と「回復」に分割し、過去の再興を志向する前者とは異なり、資本主義体制下において未来の展望と共に過去を異化する後者に特別な意義を見出す。こうした議論は、Sigmund Freudの芸術論、それを発展させたFredric Jamesonの願望充足論、Darko SuvinのSF原論などとも関わるものであり、ロマンスとしてのSFという問題はさらなる検討が必要であるように思われる。

他方、1957年出版のAnatomy of Criticismは、Jamesonによる系譜学的議論に基づけば最初期の、ポストモダニズム批評の一例だと言える。実際、第一エッセイでは、確定された五つの文学様式の循環的再利用が論じられ、第四エッセイでは、「解剖」というジャンルが自己言及的に導入される一方、「告白」においては現実と虚構という対立的二項が結合され、「小説」は複数のジャンルの混合体として分析されている。これらはまさに、Philip K. DickやKurt VonnegutによるSFを含む、ポストモダン文学の特質に関わるものであり、その再検討に際してもFryeの洞察は参照に値するだろう。

20世紀文学批評を新批評から新歴史主義へ、文学テクストの内部から外部へという流れとして概括した場合、Fryeの批評は神話中心主義的な文学テクスト一元論として、ポストモダニズムもシニシズムと閉塞の美学として限定的に理解されがちだ。しかし、ポストモダンSFと共にFryeを再読する時に見えてくるものは、中心化や一元化とは対極的な側面、つまり、文学様式名でもある「アイロニー」の問題系に他ならず、それはまた理論の閉塞を形式的かつ歴史的に阻むものでもある。ポストモダニズムやFryeの限界を批評史的現実とする見解に、われわれが現実だと思っていることは実は幻想ではないのかというDick的な予感を対置しつつ、本発表では、Fryeの批評とポストモダンSFをめぐる諸問題と、アイロニーの批評史的意義について考えてみたい。


中山 悟視

 

Kurt Vonnegutは、1950年代に長編第一作Player Piano、第二作Sirens of TitanをともにSFの枠組みで執筆した。65年のGod Bless You, Mr. Rosewaterや同年に書かれたエッセイ"Science Fiction"には、SFというジャンルに対する曖昧な態度が見て取れるものの、63年にCat's Cradle、69年にSlaughterhouse-Five、73年にBreakfast of Championsと、メタフィクションの手法とSF的想像力を接続したポストモダン小説の代表作を書いた。80年代になると、SF的手法を抑制しながらも、ポストモダンと称される物語群を創作し続け、1997年には最後の小説となるTimequakeを書き上げる。85年にGalápagosで、百万年後の未来に人類進化の物語を夢想したことを唯一の例外として、Vonnegutはここで再びSF的な大仕掛け、"a sudden glitch in the space-time continuum"「時空連続体に発生したとつぜんの異常」を自らの幕引きに取り入れる。さらに、老SF作家Kilgore Troutがその中心に据えられることで、Vonnegutのポストモダン・メタフィクションは90年代後半に再演・再現されることになる。

"Call me Junior" と始まるTimequakeは、"Call me Jonah"とMoby Dickの語り手IshmaelをパロディしたCat's Cradleの冒頭を対象化する。また、Timequakeには、"autobiographical collage"「自伝的コラージュ」として書かれたエッセイ集(Palm Sunday, Fates Worse than Death)の要素も混ぜ合わされている。作中で幾度も繰り返されるように、出来に納得がいかなかったその作品の原形を"Timequake one"と呼び、そこに7か月ほどの間の"thoughts and experiences"を混ぜ合わせることで、ようやくTimequake (あるいは"Timequake two")は完成する。しかし、一度書き上げた原稿を再利用する(あるいは書き直す)ことは、よくある創作の裏事情であって、わざわざ告白することではないにもかかわらず、自らの失敗と苦悩を敢えて開陳するのは、それがかつてSlaughterhouse-FiveとBreakfast of Championsで見せた自己内省的語りの繰り返しなのであり、そこにこそVonnegut流のポストモダン小説の謀略が読みとれるだろう。

本発表では、Timequakeをその再現性に着目しながら、Vonnegutのポストモダニズムを自己内省的に再演するポストモダン小説として再読し、さらに上掲作品のいくつかを参照しながら、VonnegutのSF的手法とポストモダニズムとの関係性について考察してみたい。