1. ウィンスロップ父子と<他者>としてのニューヨーク

ウィンスロップ父子と<他者>としてのニューヨーク

佐藤 憲一

 

1664年におけるヨーク公のニューアムステルダム征伐には、ひとりの黒幕がいた。それは、マサチューセッツ植民地初代総督ジョン・ウィンスロップの長子、ジョン・ウィンスロップ・ジュニアである。今日、とりわけ日本国内においては十分に研究されているとはいえないウィンスロップ・ジュニアであるが、彼は17世紀半ばの大西洋世界において、広範な人的ネットワークを形成した知識人として確たる名声を博していた。彼がイングランド国王の特許状をとりつけ、ヨーク公の征伐の仲立ちをすることができたのも、まさにこの人脈によるところが大きい。そもそも、1633年に「希望の家」という名の交易拠点をハートフォードに設け、以後コネチカットバレーの領有権を主張し続けたオランダ人との関係をどうするかということは、ジョン・ウィンスロップ率いる移民したての非分離派ピューリタンにとって喫緊の課題であった。この意味において、ニューヨークの成立は、オランダ人に対するウィンスロップ父子の長年にわたる取り組みの総決算であったといっても過言ではない。

新大陸のオランダ勢力は、非分離派ピューリタンにとって必ずしも単純明快な、即座に征服すべき<他者>であったわけではない。いうまでもなく、そこにはアメリカ・インディアン(以下単に「インディアン」と記す)という別のレベルの<他者>がいた。つまり、彼らにとってのオランダ人は、自分達とは異質なものでありながら、インディアンほどには異質ではない程度の、いわばあやふやな<他者>であった。そうであるからこそ、非分離派ピューリタンは、オランダ人が<他者>であることを、常に確認する必要に迫られた。ジョン・ウィンスロップの『日記』において、オランダ人が、しばしばインディアンとセットで登場し、ときにオランダ人とインディアンの血なまぐさい抗争の顛末が詳細に記述されているのは、このことと決して無関係ではないはずである。

このような文脈でみるなら、1664年におけるニューヨークの成立とそれに至るプロセスは、非分離派ピューリタンにとってのあやふやな<他者>が征服すべき<他者>へと姿を変えてゆくプロセスであったと理解できるのではないか。ならば、ニューアムステルダムは、皮肉にもその他者性が完成した時点でニューヨークという名を与えられ、英国領内に組み込まれた、ということになる。ニューヨークは、はじめから<他者>であったのだ。

非分離派ピューリタン名家の父子は、オランダというあやふやな<他者>といかに対峙するのだろうか。また、最終的にはいかにしてそのあやふやさを消去し、<他者>として領有してゆくのだろうか。発表では、ニューイングランド移民以降に書かれたジョン・ウィンスロップ父子のテクストにおけるオランダおよびオランダ人表象の成り立ちと変遷について明らかにし、非分離派ピューリタンにとってのニューヨーク成立の意義を確認したい。