1. 第7室(3号館 3101室)

第7室(3号館 3101室)

開始時刻
1. 午後2時00分 2. 午後2時55分
3. 午後3時50分 4. 午後4時45分(終了5時30分)
司会 内容
 

1.セッションなし

原 恵理子

2.The Red Letter Playsにおける性と生

  穴田 理枝 : 近畿大学(非常勤)

岡本 太助

3.Suzan-Lori Parksと黒人のリンカーン―The America PlayとTopdog/Underdogにみる「歴史」の芸術的創造

  佐藤 里野 : お茶の水女子大学(院)

山本 秀行

4.BiffはなぜBill Oliverの会社が十一階であることを語るのか―Death of a Salesmanにおける身体への「気づき」の感覚

  日比野 啓 : 成蹊大学



穴田 理枝 近畿大学(非常勤)

 

Suzan-Lori Parksはアメリカ合衆国の正史としての歴史をふまえつつ,大胆な切り口で新たな歴史の場面を創作し,演劇空間に提示する劇作家である。ParksはNathaniel Hawthorneの『緋文字』の “riff”としてIn the BloodとFucking Aの2作品を書き、The Red Letter Playsとして発表した。この2作品の主人公はそれぞれHester, La Negrita、Hester Smithであり、共に『緋文字』の主人公Hester Prynneと同じHesterというファースト・ネームを持つ。しかし『緋文字』と異なり彼女たちは底辺に生きる黒人女性であり、しかもそれぞれが共に子殺しという結末を迎える。しかし両作品は決して子殺しをめぐる葛藤の物語でも追憶の物語でもない。ギリシャ悲劇的なコーラスや主人公をめぐる人物達の告白、ブレヒト的な歌やTALKという言語を取り入れることで観客の感情移入を制限しつつ、彼女たちの生活と彼女たちをとり巻く状況を描き、歴史的、社会的な事象をあぶり出していく告発の物語である。

In the Bloodでは社会福祉局の役人、医者、聖職者など社会的地位を得た人物達が、5人の私生児の母親であるHesterと関わる。彼らはそれぞれ彼女の性を管理し、社会システムの下位に組み込もうとする。しかしそのような彼らが個人的には彼女と性的な関係を結んでいる。つまり彼らは社会的には彼女のセクシュアリティを軸とした生き方に対して管理を強めながらも、個人的な楽しみのためには彼女を利用するというダブルスタンダードで彼女と関わり、自らの欲望については隠蔽しているということになる。その事実こそが「性」が決して社会システムに組み込まれ得るものではないことを裏付けている。19世紀から20世紀初頭にかけてヨーロッパおよびアメリカ合衆国において科学的なアプローチとして形成された血統主義は「悪い血統は排除せよ」という社会的な言説へと変化し、「優生学」として社会的な地位を得た。In the Bloodの冒頭で「社会の重荷」とHesterをののしるコーラスは、そのような言説を担保として排除の論理を正当化する大多数の民衆の声として聞くことができる。一方、Fucking Aの主人公であるHesterは堕胎医という職業に就き、いわば血統の抹消に手を染めている。彼女は幼かった息子のちょっとした盗みを通報し彼を監獄暮らしへと追いやった女への復讐のため、妊娠中のその女を無理矢理堕胎させる。しかしその子供の父親は実は脱獄中のHesterの息子であり、女は権力継承のために息子を求める夫には不義の子であることを隠してHesterの孫にあたるその子供を出産するつもりであったという皮肉が待ち受けているのである。

The Red Letter Playsは、Parksがアメリカ社会においてスタンダードとされる生き方から逸脱したとみなされる者へと下される罰を情け容赦のない筋書きで舞台に上げて見せた2作品である。本発表では2作品に描かれる“blood”, “the red letter”のイメージを手がかりとし、女性の身体を通してParksが告発しようとする「アメリカ」についての読みを提示する。


佐藤 里野 お茶の水女子大学(院)

 

劇作家Suzan-Lori Parksにとって、「アメリカ大統領」は、演劇というメディアによって「歴史」を再考するための重要なモチーフである。とくにエイブラハム・リンカーンは、The America Play (1994年初演)やTopdog/Underdog (2001年初演)といったParksの代表作のテーマとして繰り返し取り上げられている。本発表では、Parksの作品に見られるリンカーンのイメージの反復という手法について、主に歴史表象と演劇、Parksの作家としての現代的位置付けという観点から考察する。

The America PlayおよびTopdog/Underdogでは、「大統領エイブラハム・リンカーンの扮装をする黒人」というモチーフが散見する。黒人女性作家であるParksによって「黒人がリンカーンを演じる」という行為が強調されているこのモチーフからは、「国家」や「歴史」の表象における「人種」という問題を可視化させようとするParksの政治的な戦略がうかがえる。これによりParksが試みるのは、ひとつには、白人社会とその歴史の中で周縁化されてきた黒人の位置を演劇的に語り直すことであり、同時に、「歴史」それ自体が創作的なものであること、それゆえ「歴史」は不安定で更新可能な物語であるということを演劇という表象媒体の中で提示することでもある。「黒人の歴史」の表象に少なからず関心を寄せながらも、「歴史」の表象のあり方それ自体をパフォーマティヴなものとして示すことによってParksは、「黒人作家」が語る「黒人の歴史」も「正当な歴史」ではなく、創意や想像によって描かれ変容していくものであることを示している。このことは、「黒人女性作家」というParksの作家としての位置付けを複雑なものにしていると考えられる。

以上のことから、この発表では、The America PlayおよびTopdog/Underdogの2作品の戯曲テクスト及び劇作法を検討し、「黒人のリンカーン」というモチーフの反復に見られる政治的・芸術的戦略を明らかにする。その上で、これら2つの戯曲を通して見られる作者の二重の位置性 ―「黒人女性作家」というアイデンティティへの同化と差異化―の問題をできる限り詳細に浮かび上がらせ、ポストコロニアルの現代におけるParksの作家的位置付けについて論じていく。なお、「リンカーン」の表象と劇作家の政治的位置という観点からParksの位置付けを検討するにあたり、劇作家Tony Kushnerが脚本を担当した2012年のアメリカ映画Lincoln(Steven Spielberg監督)にも言及できればと考える。Parksと同様Kushnerにとっても、「歴史」は重要なテーマのひとつであるが、自らのゲイ・セクシュアリティを表明しつつブロードウェイで活躍するユダヤ系白人男性Kushnerの描く「リンカーン」は、Parksの立場を検証する際のひとつの参照項となるだろう。


日比野 啓 成蹊大学

 

放浪生活に終止符を打ち、実家に戻ってきた三十四歳のBiffは、新しい拡販計画を提案するために、髭を剃り青いスーツを着込んで、かつての雇用主Bill Oliverに会いに出かける。六時間待たされたあげく、Oliverが自分をまるで覚えておらず、一瞥をくれただけで歩き去るのを見て、自分がOliverの会社のセールスマンだったという自分で作り上げた嘘を十五年間自分でも信じ込んでいただけで、たんなる発送係でしかなかったことを認識する。そして「どんな感情が自分のところに押し寄せたかわからない」(”I don’t know what came over me”)ままに、Oliverのオフィスに入り込み、彼の万年筆を盗んで外へ駆け出す。弟 Happy にBiffが語って聞かせる、このよく知られたDeath of a Salesman第二幕のエピソードには、まだ(おそらく)誰も納得のいく説明をしていない一つの疑問がある。「Oliverは兄さんを取り押さえたのか」と聞くHappyに対して、Biffは「俺は走り出た。十一階を走り下りた。走って走って走った」(”I ran out. I ran down all eleven flights. I ran and ran and ran.”)と答えるのだが、なぜBiffは十一階であるとわざわざ口に出すのだろう。そして終わり近くで父親Willyと相対するBiffはなぜ、「今日俺は手にペンを持ったまま十一階を駆け下りた」(”I ran down eleven flights with a pen in my hand today.”)と「十一階」であることを再び口に出すのだろう。

リアリズムの戯曲だからなるべく具体的に書いているのだ、という答えは、Oliverの会社についての記述が他にほとんどないことから斥けられる。高校のアメフトチームでクォーターバックだったBiffの身体能力が未だに高いことを観客の無意識に刷り込みたいのだ、という答えは、十一階の高さの説明にはなっても、なぜ十二階や十階ではなかったのか、という説明にはならない。精神的な混乱の最中にあって、Biffは駆け下りながら「一階、二階…」と数えていたからこそ、「十一階」という言葉が出てくるのであり、筋肉をほぼ意識の命令なしに動かしながら、運動する身体に鋭く意識が向かう、あの「気づき」の感覚がこれらの台詞には再現されていると考えるべきなのだ。

そう考えると、「自分たちは十把一絡げだ」(”I’m a dime a dozen, and so are you!”)という例の台詞を含む、BiffがWillyに対して思いの丈をぶつける一連の台詞も別の意味があることがわかってくる。Death of a Salesmanは、こうした「気づき」を通して、BiffやWillyやリンダが抑圧されていた身体感覚を取り戻す過程のドラマでもあることを本発表では明らかにしたい。