1. 3.食べる女たち―Paradiseにおける狩り・食・台所

3.食べる女たち―Paradiseにおける狩り・食・台所

吉田 希依 九州大学(院)

 

「彼らはまず白人の少女を撃つ」という衝撃的な一文で始まるToni Morrisonの第7作Paradise (1998)は、Morrisonが最初につけようとした「戦争」という題名が示しているように、性別、世代、人種、宗派というような様々な方向から、対立項の戦いを描いた作品である。本発表では特に男女間の対立に目を向け、Paradiseにおける食べる行為に焦点を当てることで、家父長制を支える手段としての食から、男性優位な狩りの構図を揺るがせる力を持つ食の機能を明らかにすることを目的とする。Morrison研究において料理や台所はしばしば取り上げられるテーマであるが、作品の細部として扱われる傾向があり、さらに食べる行為については、その重要性はまったくといっていいほど見落とされてきた。しかしながら、ConsolataがDeaconを「食べる」ことからも分かるように、作品全体の解釈に大きく関わる重要なテーマである。

Paradiseに描かれる男女間の対立は、先の一文にも象徴的に描かれている。黒い黒人だけの理想郷、Rubyの男たちは、自分たちが抱える矛盾から目を逸らすために、自由奔放に生きる修道院の女たちを堕落の源とみなして虐殺するのだ。銃を手に、獲物を追い立てる狩人としての男と、鳥、獣としての狩られる女のイメージは、作品全体に不吉な影を差している。

自らの胸を皿に載せて差し出す、絵画の中の女のように、Paradiseの女たちの身体は男たちの所有の対象である。彼女たちは、自らの身体だけでなく、男たちの食欲を満たすための食事を提供する。Rubyの男たちは町の女たちを白人の台所で働かせないことを誇りとしているが、彼らの誇りは、女性が台所で料理をして食事を提供することと、台所の持ち主である主人に性的に所有されるという二つが同義であることを示していて、大変興味深い。夫のDeaconが狩りで撃ち落してきたウズラは、修道院の女たちであると同時に実は妻Soaneの姿でもあり、夫のために気が進まぬままウズラをさばいて調理する彼女は、夫への隷属的立場から逃れる術を持たない。

しかしながら修道院に流れ着いた女たちは、満たされない自己を埋め合わせるかのように貪欲に食べる。彼女たちにとって食べる行為とは他者に拒絶された自らの肯定を意味し、ここでは狩られる女から食べる女へ、という大きな発想の転換を読み込むことができる。そうすると先に述べた修道院の襲撃は、「食べる女」に脅威を感じた男たちによる、狩りのやり直しだと言えよう。狩る男たちは不毛な大地で新しい命を生み出すことができず、一方で食べる女たちは豊かな土壌で食物を育てる。そして女たちが互いの空腹を満たすために料理をする場所としての台所は、かつてのコミュニティ・キッチンとしての機能を失ったRubyのオーヴンと対照的に、女たちを受け入れ癒す空間となる。「ホームに帰る」ことと同義である、食べる行為の持つ豊かさ、複雑さについて論じることで、Paradiseを読み解きたい。