1. 第5室(2号館 2101室)

第5室(2号館 2101室)

開始時刻
1. 午後2時00分 2. 午後2時55分
3. 午後3時50分 4. 午後4時45分(終了5時30分)
司会 内容
三杉 圭子

1.John Dos Passos三部作U.S.A. における情報ジャンルの文化史

  千葉 洋平 : 筑波大学(院)

麻生 享志

2.未来へのノスタルジー―Don DeLilloのCosmopolisにおける経済的・認識論的搾取

  矢倉 喬士 : 大阪大学(非常勤)

杉山 直子

3.食べる女たち―Paradiseにおける狩り・食・台所

  吉田 希依 : 九州大学(院)

4.Their Eyes Were Watching God の男性性表象に見るZora Neale Hurstonの人種意識

  山内  玲 : 香川大学



千葉 洋平 筑波大学(院)

 

John Dos Passosの3部作、The 42nd Parallel (1930)、1919 (1932)、The Big Money (1936) が論じられる際、この3部作をまとめたU.S.A. (1938) の序文“U.S.A.”と、3部作の土台となったとされるサッコ・バンゼッティ事件を扱った“The Camera Eye (50)” が他の部分よりも注目されてきた。この2つのパートは、3部作の構想土台となる事件及び3作品をつなぐ序文であるため、小説を理解するため、もしくは作者の意図を汲み取るための特権的な参照点と見なされ、作家自身の政治的立場と結び付けられてきた。近年の研究であるThomas StrychaczのModernism, Mass Culture, and ProfessionalismやMichael DenningのThe Cultural Frontは、Dos Passosの3部作における資本主義の「上部構造」への関心に着目し、アメリカ合衆国の歴史、特に南北戦争後から大恐慌までの北部の歴史を、文化産業やコミュニケーション・メディアの発達との並置によって描いていると論じる。Dos Passosの文体は、簡素であり機械のように小単位の語句が並置されている一方、他方で一見正反対にも見える壮大で複雑なアメリカ合衆国像を作品全体を通して提示する。このコントラストは、小さな個々人の生活がより強大な大陸の歴史の流れに飲み込まれていることを示すものとして解釈されてきた。この状況を敗北主義と見るか、社会変革の契機と見るかは、これまでの批評家たちの議論の的であったと言えよう。

しかしながら、この主題とスタイルの関係を歴史と個人のアレゴリーとしてのみ捉えると、Dos Passosが別のジャンルから借用している特徴を見逃すことになってしまう。そのジャンルとは、「書類」と「文化史」であり、どちらも大戦間期に流行するものである。「書類」は、今日の私たちに最も馴染みのあるライティングのジャンルである。「書類」は、情報が商業的な価値を帯びてくる時期と重なって発展し、1930年代までには民衆を表象するために国家や企業が利用する技術の一つとなった。「文化史」もまた大戦間期に勃興したジャンルであり、不安定な時代においてこれまでの歴史的変化をマクロな視点で捉えることで、これからの指針を模索する目的をもっていた。これらのジャンルは、「アメリカのライフ」の問題点とその治療法を明らかにすることにその関心を向けており、“Newsreel”や“The Camera Eye”のようなモダンなテクノロジーと同様に、特定の状況を映し出そうとする言語的な技術とも言える。本発表では、Dos PassosのU.S.A. に隣接するこれら2つのジャンルの特徴を論じつつ、小説内における情報媒体の役割の変化と登場人物の関係の変化が対応していることを明らかにする。最終的にDos Passosがこれらのジャンルの言語を利用することで、社会変革のための新たな言語の捉え方を考案していることを論じる。


矢倉 喬士 大阪大学(非常勤)

 

「コズモポリス(世界都市)」とは何であろうか。本発表で扱うDon DeLilloのCosmopolis(2003)の舞台となるのは、「人種のるつぼ」と称されたニューヨークであり、まさにコズモポリスと呼ぶにふさわしい。しかしながら、Cosmpolisは、雑多な人種が集まった結果として世界的な都市が出来上がるのではなく、個人の内には既に雑多な時空間が組み合わさった世界都市が存在することを克明に描き出している。28歳にして巨万の富を築いた投資家Eric Packerは、リムジンの中にいながらにしてウェブによって世界中の情報に接続されており、時差に鑑みた場合にニューヨークからは半日未来にあたる日本円の動向を予測している。Ericという個人の体には世界中の時間と空間が流れ込んでいるようなものである。

DeLilloはThe Names (1982) においても、知らぬ内に世界中の人々を搾取するアメリカ企業を描いたが、Cosmopolisはそれを遥かに上回る規模の物語である。中でも、クライマックスとも呼べる、裸体の群れの映画撮影シーンをアウシュヴィッツの記憶と重ね合わせるPeter Boxallの読みは示唆に富んでいる。サイバー資本家は世界中から利益を上げておきながら、企業の末端で働く生身の労働者の個人的歴史や苦痛には関心を持たない。彼らが参照するのはスクリーンに映るデータだけであり、それは「生身の身体」を持つ労働者たちへの認識論上での殺戮行為に等しい。ここからは「サイバースペース的な時空間」に傾倒し、「生身の時空間」を軽視するサイバー資本家への批判が読みとれるように思える。しかしながら、私たちはEricのようなサイバー資本家に対して、批判だけを加えられる立場にはない。とりわけ、Ericがかつての従業員であるBenno Levinによって射殺されるラストシーンを、一部の批評家が分析しているように「身体性への回帰」と解釈してはならない。前作にあたるThe Body Artist (2001) でも追求されていたように、私たちはみな、「確かな現在」や「今ここにある自分」を持つことができず、過去や未来、そして見知らぬ誰かに侵入されているようにして生きているのだから。このことを意識して初めて、虚構上での一人のサイバー資本家の物語は、私たち自身の問題へと引きつけられるであろう。

本発表では、小説のタイトルである「コズモポリス(世界都市)」を、回帰すべき時空間の本来性を持たずに、世界中の異なる時空間に開かれている私たち一人ひとりの体そのものとして考察し、巨万の富を持つサイバー資本家に留まらず私たち自身がいかなる種類の経済的・認識論的搾取の犠牲となり、またそれに加担してもいるのかを明らかにしたい。


吉田 希依 九州大学(院)

 

「彼らはまず白人の少女を撃つ」という衝撃的な一文で始まるToni Morrisonの第7作Paradise (1998)は、Morrisonが最初につけようとした「戦争」という題名が示しているように、性別、世代、人種、宗派というような様々な方向から、対立項の戦いを描いた作品である。本発表では特に男女間の対立に目を向け、Paradiseにおける食べる行為に焦点を当てることで、家父長制を支える手段としての食から、男性優位な狩りの構図を揺るがせる力を持つ食の機能を明らかにすることを目的とする。Morrison研究において料理や台所はしばしば取り上げられるテーマであるが、作品の細部として扱われる傾向があり、さらに食べる行為については、その重要性はまったくといっていいほど見落とされてきた。しかしながら、ConsolataがDeaconを「食べる」ことからも分かるように、作品全体の解釈に大きく関わる重要なテーマである。

Paradiseに描かれる男女間の対立は、先の一文にも象徴的に描かれている。黒い黒人だけの理想郷、Rubyの男たちは、自分たちが抱える矛盾から目を逸らすために、自由奔放に生きる修道院の女たちを堕落の源とみなして虐殺するのだ。銃を手に、獲物を追い立てる狩人としての男と、鳥、獣としての狩られる女のイメージは、作品全体に不吉な影を差している。

自らの胸を皿に載せて差し出す、絵画の中の女のように、Paradiseの女たちの身体は男たちの所有の対象である。彼女たちは、自らの身体だけでなく、男たちの食欲を満たすための食事を提供する。Rubyの男たちは町の女たちを白人の台所で働かせないことを誇りとしているが、彼らの誇りは、女性が台所で料理をして食事を提供することと、台所の持ち主である主人に性的に所有されるという二つが同義であることを示していて、大変興味深い。夫のDeaconが狩りで撃ち落してきたウズラは、修道院の女たちであると同時に実は妻Soaneの姿でもあり、夫のために気が進まぬままウズラをさばいて調理する彼女は、夫への隷属的立場から逃れる術を持たない。

しかしながら修道院に流れ着いた女たちは、満たされない自己を埋め合わせるかのように貪欲に食べる。彼女たちにとって食べる行為とは他者に拒絶された自らの肯定を意味し、ここでは狩られる女から食べる女へ、という大きな発想の転換を読み込むことができる。そうすると先に述べた修道院の襲撃は、「食べる女」に脅威を感じた男たちによる、狩りのやり直しだと言えよう。狩る男たちは不毛な大地で新しい命を生み出すことができず、一方で食べる女たちは豊かな土壌で食物を育てる。そして女たちが互いの空腹を満たすために料理をする場所としての台所は、かつてのコミュニティ・キッチンとしての機能を失ったRubyのオーヴンと対照的に、女たちを受け入れ癒す空間となる。「ホームに帰る」ことと同義である、食べる行為の持つ豊かさ、複雑さについて論じることで、Paradiseを読み解きたい。


山内  玲 香川大学

 

Zora Neale Hurstonは、1970年代後半以降、黒人女性文学の伝統という系譜において再評価を受け、キャノンの再検討を経たアメリカ文学史に確固たる地位を得た作家であり、同時にその代表作であるTheir Eyes Were Watching God (以下Their Eyesと表記)はJanie Crawfordの黒人女性の自己と声の獲得の物語として受け入れられるに至った。この動向に応じて強調されなくなったのが、再評価以前に見られた「悲劇の混血女性」という読みを成立させる要素、すなわち白人の祖先の存在をうかがわせる主人公の容姿に示されうるような、混血性の問題である。この混血性に関して、近年のHurston研究では雑種性(hybridity)の問題として再検討する批評が現れている。Hurstonの白人パトロンとの関係や人類学者Franz Boazに師事を受けたことによる影響を指摘する形で、混血性を黒人女性作家における白人性の問題として抉り出すのである。こうした批評の動向を踏まえてTheir Eyesを読むと、黒人女性の物語として解釈される過程で十分に掬い取られてこなかった白人性の問題は確かにある。しかしながら、黒人作家の白人性といえる雑種性を強調するあまり看過してしまうのは、そうした雑種性を拒み、いわば純粋な黒人性の希求といえるテーマの作品を作り出すHurstonの人種意識ではなかろうか。

以上の想定に基づき、本発表は、同時代の黒人男性を巡る言説を参照しつつ、作品のプロットを通じて像を結ぶ作者の人種意識を男性性の表象という見地から考察する。まず確認すべきは、三人の夫たちとの関係を通じて展開する女性主人公の物語において、破局の要因となる出来事が示されるにあたり、これらの黒人男性たちが何らかの形で白人の価値観を具現する存在として描かれることである。例えば、良好な関係を築いていた三番目の夫Tea Cakeとの物語において、二人の関係の終焉につながる狂犬病にかかったのは、迫りくる台風を前にした彼の判断が白人の価値観に依拠した結果であった。

Janieの人生という舞台から退場していく黒人が白人の価値観を具現する物語に作者の人種意識を見出した上で注目したいのは、従来の研究ではその意義を看過されてきた黒人男性で、Janieの第四の夫候補でもありえたMrs. Turnerの弟である。この黒人男性は、Janieの明るい肌への憧れと周囲への黒人への侮蔑を示す姉の口を通じて、Booker T. Washingtonの白人に対する阿りを罵倒する黒人民族主義的な性格を示す。こうした態度がW. E. B. Du BoisのWashington批判を想起させるのを念頭に置いた上でプロットという見地から検討したいのは、彼女の弟が作中に目立たぬ形で配置されているにもかかわらず、JanieとTea Cakeの関係に深い影を落としている点である。この名も与えられない黒人男性は、Tea Cakeに嫉妬の念をもたらし、悪名高い暴力をJanieに行使する原因となり、二人の関係を悪化させる重要な役割を果たしていると言える。本発表では、こうした作品の細部に暗示される黒人男性の性質を分析し、純粋な黒人性を求めるHurstonの人種意識が孕む複雑さを検討したい。