1. 第4室(2号館 2302室)

第4室(2号館 2302室)

開始時刻
1. 午後2時00分 2. 午後2時55分
3. 午後3時50分 4. 午後4時45分(終了5時30分)
司会 内容
瀬名波 栄潤

1.Katherine Anne Porter, “Theft”における盗みを引き起こすもの

  加藤 良浩 : 北里大学(非常勤)

2.魚を食らい、キリストを食む―The Old Man and the Sea における医学と宗教の混淆

  勝井 慧 : 関西学院大学(非常勤)

大森 昭生

3.“It Was a Long Speech for Her”― Hemingway作品における「インディアンの少女」の声

  田村 恵理 : 一橋大学(非常勤)

4.第二次世界大戦版In Our Time に向けて―未出版短編と50年代のHemingway

  フェアバンクス(杉本) 香織 : 文京学院大学



加藤 良浩 北里大学(非常勤)

 

1920年代のニューヨークを背景に、主人公の内面の苦悩を描いたKatherine Anne Porter (1890-1980) の短編 “Theft”(1929)は、複雑微妙な描写と謎めいた結末のために批評家の注目を集めてきた作品である。

日々の生活に困窮しながらも、都会に一人で暮らす語り手である主人公の女性は、パーティから帰宅した翌朝ハンドバッグが盗まれたことに気づく。彼女の推測通り盗んだのはアパートの女管理人であり、その管理人は、物を所有することに執着していないように見える語り手の様子に乗じてハンドバッグを盗み、年頃になる姪にあげようとしたのだった。二人の間での言葉のやりとりの後、管理人が、語り手の彼女こそがハンドバッグを自分の姪から盗んだのだと告げる。その言葉を受けたように彼女は、「私は自分以外のどんな盗人も恐れなかったのは正しかった。結局自分こそが私という自分に何も残さない原因を作ってしまうのだから」と思う。この彼女の考えは何を意味するのだろうか。本発表では、主人公の内面の描写と登場人物の描写の密接な関係を探ることによりその疑問について考察することにしたい。

“Theft”をめぐっては、主人公の受動的な態度や無関心な姿勢が悪の行為を呼び込む原因となるといった指摘がGivner をはじめとした批評家によってなされてきている。たしかに、所有物に対する主人公の無関心な態度や相手との摩擦を避けようとする彼女の姿勢、すなわち妥協的な姿勢が、管理人によるハンドバッグの盗みとその正当化に対する彼女の精神的な屈服を導いたことを考慮した場合、そうした解釈は説得力をもつと言える。しかし、それでは、彼女の受動的な姿勢は何が原因しているのだろうか。このことについての具体的な説明はこれまでなされてはいないようであるが、それが明らかになることにより、彼女が自分を盗人として恐れる理由がより明確に浮かび上がるように思われる。

主人公は、女性に対して自分の経済力には見合わない方法で騎士道精神にもとづく礼儀を示そうとする友人の男性Camiloについて、「一連の妥協によってささいな礼儀を効果的なものにする一方で、もっと大きく厄介な礼儀は無視していた」との思いを抱く。相手から品位ある人間として思われることを目的としたこの妥協的行動を求める気持ちこそが、彼女の受動的な姿勢の原因と通底していると考えられる。彼女が自分を盗人と受け止めるのも、妥協的な行動の末に盗人と呼ばれた彼女が、Camiloの行動姿勢と彼女自らが体現する妥協的姿勢が根底において共通すると直感し、その姿勢と彼女が前日に目撃した男女の若者たちの光景を重ねたからではないか。つまり、経済的に不自由な中での体裁を求める自らの姿勢が「ささいな礼儀」を保つことを可能にする一方で、「もっと大きく厄介な礼儀」の無視という事態、すなわち相互の関係を破綻に導く、自分自身やそれに関わる相手への負担の転嫁という形の盗みを引き起こすことを、管理人の言葉と前日見た男女の若者たちの光景をきっかけとして彼女が感じたからではないか。


勝井 慧 関西学院大学(非常勤)

 

無類の酒好きでもあり、美食家でもあったErnest Hemingwayの小説は、無数の「食」の描写にあふれている。1920年代のパリとスペインを舞台とした The Sun Also Risesでは、ジャズ・エイジを生きる若者たちの退廃的な生活を彩るように、さまざまなワインやシャンパン、大量の料理が描かれる。第一次世界大戦の戦場を舞台としたA Farewell to Armsにおいても、イタリアのスパゲッティやチーズ、ワインの描写は読者の目を引き、スペイン市民戦争を描いたFor Whom the Bell Tollsではウサギのシチューが主人公Robert Jordanの空腹を掻き立て、戦場でつかの間の生を生きようとする彼の渇望を示唆する。

これらの作品と比較すると、Hemingwayが生前に発表した最後の小説であるThe Old Man and the Seaにおける「食」の描写は極端に簡素であり、描かれる食べ物の数も乏しい。しかしながら、本作における主人公Santiagoの食事は、一つ一つに重要な意味合いが潜んでいる。巨大なカジキマグロを釣り上げようとするSantiagoは海上でシイラやマグロ、エビ、そしてカジキなどを食べるが、肉体の強さを維持するためにタンパク質の多い食物を味や食欲に関係なく摂取しようとするSantiagoの価値観には、20世紀初期のアメリカにおいて一般家庭にも広く知られるようになった栄養学の影響が見て取れる。同時に、脇腹を槍で突かれたキリストのように、銛で脇腹を突かれたカジキを食べるSantiagoの行動には、パンとワインが象徴するキリストの血と肉を食べることでキリストの神聖を得るという、伝統的な聖餐のイメージが付与されていると考えることが出来る。

物語の最後で十字架のようにマストを背負い、両手に聖痕を思わせる傷をつけたSantiagoには、明らかにキリストのイメージが重ねられているため、従来の研究ではSantiagoはキリストの自己犠牲や克己心、禁欲を体現する存在として解釈されてきた。しかし、その一方でSantiagoは“I am not religious ”(OMS 64)と明言し、神への祈りも真剣には唱えようとしない。Hemingwayの作品は、常に20世紀的な近代の価値観と19世紀以前の旧来の宗教観や道徳観との摩擦の中で生きる道を探る主人公たちを描いてきたと言えるが、Santiagoの中にも多くのHemingway作品の主人公たちが抱き続けた宗教へのアンビヴァレントな感情や新旧の価値観の葛藤が潜んでいるといえる。

本発表の目的は、The Old Man and the Seaにおける「食」の描写とその歴史的背景を読み解くことで、Santiagoの中で対立しながら融合へと向かう新旧の価値観のせめぎ合いを明らかにすることである。


田村 恵理 一橋大学(非常勤)

 

本研究では、HemingwayのNick Adams物語群に登場する「インディアン」の少女に着目し、“Ten Indians”、 “Fathers and Sons”、 “The Last Good Country”を中心としたBoston JFK図書館所蔵の草稿資料を根拠におきながら、これまでの分析傾向の問題点を指摘し彼女たちの読み直しを試みる。以下の三点から考察する。

I. 彼らの名前から

Hemingwayの短編群においてインディアンが登場する作品は多く、それらには登場人物に関して一貫性も見られる。興味深いのは、彼らの名前が我々に混乱を与える事である。例えば別の名を持つインディアンの少女が多くの批評家によって同一人物と捉えられる一方、同姓同名のインディアンの男が異なる作品で別人の様に描かれている。そこで彼らの名前について草稿調査をもとに構想の変遷を追い、Hemingwayがインディアンに関しては、キャラクターと、名前といういわゆる「言葉」との結びつきを意図的に固定化しすぎないようにしていたのではないかと提案する。

II. 二人の沈黙から

インディアンの少女Prudence Mitchellの名は、“Ten Indians”において言及される。出版版では彼女自身は登場しないものの、草稿のあるバージョンにおいて彼女はNickに向けて自分の言葉を語っている。しかしこれは発表されなかった。更にHemingwayは高校時代に学校文芸誌に発表した短編において、インディアンの男Billy Tabeshawに英語で饒舌に語らせている。しかし、作家活動を始めてから書かれた“The Doctor and the Doctor’s Wife”に登場する同姓同名のインディアンは、無口で英語も全く分からない存在という設定になっている。こういったインディアンの沈黙について執筆時期を意識しながら分析し、彼らと言葉との関係性をHemingwayがどうみていたかについて考察する。

III. 彼女を読み直す

Nick Adams物語群におけるインディアンの少女たちの持つ特異性は、性的な相手として常に白人男性を選んでいるという事だ。その為Nickとインディアンのガールフレンドとの関係は、白人男性からの彼女たちへの搾取という、典型的なポスト植民地理論的見地から意識され続けている。しかし“Ten Indians”の未発表の草稿バージョンの1つにおけるインディアンの少女の言葉からは、彼女が同属のインディアン社会の男性からの逃げ場をNickに求めていた事が想像される。この点についてこれまで批評上見逃されてきた事を指摘し、その見地からインディアンの少女の読み直しを試みる。


フェアバンクス(杉本)香織 文京学院大学

 

Hemingwayが『コリアーズ』誌の特派員として第二次世界大戦に「参戦」したのは1944年のことであった。大戦の経験は『コリアーズ』誌や『PM』紙に寄せた記事、また小説Across the River and into the TreesおよびIslands in the Streamで披露されている。

第二次大戦での体験をフィクション、ノンフィクション問わずこれだけ多くの媒体に書き残したHemingwayだが、彼の第二次大戦記はこれで終わった訳ではなかった。Islandsの執筆から5年余りが経った1956年の夏に突如、五つの短編(“A Room on the Garden Side”、“The Cross Roads”、“Indian Country and the White Army”、“The Monument”、“The Bubble Reputation”)を書き上げたのである。Hemingwayは Charles Scribner, Jr. に宛てた手紙の中で、これらの作品を「非正規軍や戦闘、殺戮者たちを扱っているので、少しショッキングだと思う」と表現、「出版するのであれば自分が死んだ後にして欲しい」とまで言った。Hemingwayのこの言葉、彼が大戦中に軍当局の取調べを受けた事実、さらにMen at War (1942) の序論で書いた「戦時中、作家がアメリカ合衆国に害を及ぼすという理由で真実を出版できないのなら、書いて出版してはならないのだ」との一節から、これらの短編に記事以上の戦慄すべき場面や国家を揺るがしかねない“何か”が潜んでいるのではという憶測が生まれても何ら不思議ではないだろう。Hemingwayが亡くなってなお “The Cross Roads” 以外の作品が出版されていないことも、その憶測を強固なものにしている。

しかし、発表者が「ヘミングウェイ・コレクション」に所蔵されている短編の原稿調査を行った結果、殺戮の場面を描いた「ショッキング」な物語はむしろすでに出版されている “The Cross Roads” だけで、それ以外の作品には直接的な戦闘シーンや殺戮場面が一切ないことが判明した。彼が短編で披露したのは、自身や非正規軍の仲間らが戦時下にいかなる場所で、どのような日常を送っていたか――これにほぼ尽きるのである。

では、Hemingwayがこれらの短編を執筆した意図は何だったのであろうか。彼がScribner, Jr. への書簡に綴ったように「書く訓練のため」という側面があったことは確かであろう。また短編の一つ“The Monument” というタイトルが示しているように、第二次大戦にひとつの区切りをつけたいという思いがあったのかもしれない。しかし第二次大戦の短編群をひとつの物語と見なし、Islandsの後、つまり50年代に執筆された他の死後出版作品との関連の中で捉えなおすと、単なる習作と片付けられない側面が浮かび上がってくる。第二次大戦の短編群は大半が未出版作品のため、これまでほとんど論じられることはなかったが、本発表ではHemingwayの第二次大戦の短編群の作品世界を明らかにするとともに、その執筆意図を探りたい。