1. 第3室(2号館 2301室)

第3室(2号館 2301室)

開始時刻
1. 午後2時00分 2. 午後2時55分
3. 午後3時50分 4. 午後4時45分(終了5時30分)
司会 内容
中垣恒太郎

1.Mark Twainの見た最後の夢 ― No. 44, The Mysterious Stranger を旅行記の視点から読む

  別所 隆弘 : 同志社大学(非常勤)

名本 逹也

2.「もの」と「自由精神」―The Spoils of Poyntonにおける倫理

  松浦 恵美 : お茶の水女子大学(院)

名本 達也

3.視覚という贈与―Daisy Millerにおける視覚のエコノミー

  加茂 秀隆 : 國學院大學(非常勤)

海老根静江

4.ヴェニスという舞台装置 ―The Wings of the Dove を中心に

  堤 千佳子 : 梅光学院大学



別所 隆弘 同志社大学(非常勤)

 

本発表はMark Twainの最晩年の作品No. 44, The Mysterious Stranger を、旅行記の文脈から読み直す試みである。No. 44, The Mysterious Stranger は、Twainのフィクション群においても異質な作品だといえる。そもそも生前未発表の遺稿であるのに加え、Twainが何度も書き直しをしたことや 出版までに編集者Albert Bigelow Paineの手が入ったことなどから、いくつかの異なったバージョンがこの作品には残されている。Twainの作品の多くは構成上の欠陥を備えていることがしばしば指摘されるが、PaineがTwainの死後に作品の構成を大きく変えて出版したことからも明らかなように、本作品に至ってはプロットから人物形成に至るまで、殆ど全編が破綻しているといっても過言ではない。そのために作品の研究は数そのものが少ない上に、研究者間で共有される批評的視座も未だ成立していないと言える。本発表はこうした状況にある本作品に対して、旅/旅行記という観点を導入して読解したい。

周知の通りTwainは同時代的にはまず何よりも旅行記作家として名を馳せていた。こうした名声はフィクション作品の性質にも大きな影響を与えている。一方、Twainの旅行記作家としてのアイデンティティは、同時代的には最も広く受け入れられていたにも関わらず、現在は軽視される傾向にある。こうした状況に対して、Lazar ZiffはTwainの旅行記作家としての天分を再評価する必要性を指摘し、Jeffrey Meltonは十九世紀のツアーの大流行という同時代的文化コンテクストの中にTwainを再配置した。本発表はこれら近年の成果を受けて、Twainの旅行記作家としての要素を整理し、本作品にその要素を見いだす試みになる。これまでにも中垣恒太郎や井川眞砂らによって本作品と旅行記との比較がなされたこともあったが、その指摘はあくまでも部分的なものに留まっている。本発表ではこれまでに指摘された部分を視野にいれつつ、本作品全体を旅行記の視点から読む可能性を追求したい。具体的には、構造的、文体的、そしてテーマ的な共通性を指摘することになるだろう。

またこの作品を解釈するにあたって避けて通れない、あの有名な「すべては夢」と語る結末に関する考察も旅行記という視点から行いたい。これまでの批評はこの結末の解釈に多くを費やしてきているが、これまでの解釈においてはTwainの晩年の厭世的世界観/哲学とともに語られることが多かった。そうした批評をふまえた上で、旅行記作家Twainがこの結末の中に描いた最後の「夢」を、旅行記の文脈上に置き直してみたい。


松浦 恵美 お茶の水女子大学(院)

 

Henry Jamesの後期の始まりの作品として位置づけられるThe Spoils of Poynton (1897) は、その成立状況のため、また中期の社会的主題から離れた高度に心理的な内容のために、ジェイムズのキャリア上重要な作品として捉えられてきた。 The New York Edition の序文において、ジェイムズは主人公 Fleda Vetch を「自由精神の持ち主」と呼び、その想像力と知性の重要性を強調している。この精神性の重視は、晩年の自伝 A Small Boy and Others (1913) における「内的生活」という言葉に結実するものであると考えられる。

その一方で、 Spoils は「もの」にまつわるテクストでもある。雑誌連載時の題名が The Old Things であったことからもうかがい知れるように、このテクストは「もの」を中心として展開し、「もの」によって動かされる人々を描いている。直接的にはポイントン邸に収められる美術品を意味するこの「もの」は、伝統に基づく社会と階級制度を指すと同時に、新しい世紀において投機の対象となる美術品および古い屋敷が持つ経済的価値を意味するものとして考えることができる。このように、「もの」がテクストを稼働させる原動力として存在していることを考えるなら、ジェイムズが言う「自由精神」、そして倫理の捉えかたに、もうひとひねりを加える必要が出てくるかもしれない。つまり、後期のテクストにおける精神性及び「内面生活」を重視する姿勢は、物質的世界の存在がより強固なものとして迫ってきた結果起こったものと考えることができるのではないか、ということだ。

このように考えた上で、本発表では、 Spoils における物質性と精神世界を、互いに影響を与えその在り方に変化を及ぼしながら生成するものであると捉え、ジェイムズ後期における認識論を再考することを試みたい。ポイントン邸の炎上に象徴されるように、初期・中期のテクストにおいて不朽のものとして存在し、19世紀的精神を支えていた伝統と階級は、後期においては崩壊するものとしてある。さらに、「もの」を飲み込もうとする新興ブルジョア階級の示す資本と、そして「意志」の力が、世界を大きく変えようとしている。このように物質的条件の意義が拡大し、従来の意味での独立した精神性を脅かす中で、むしろ両者の垣根が融解し、新たな形での精神の在り方が示されているようにも考えられる。Fledaが担うとされる精神性―特に「自由」をめぐる―は、生存の危機とサヴァイヴァルのための戦いと表裏をなして成り立つものとして考える必要がある。そして、この生存の危機を乗り越えるものとしての精神性という側面もまた、このテクストには描かれているのではないだろうか。このような点に留意し、ジェイムズの言う「自由精神」、そして「内的生活」という言葉を成立させた物質的背景を探る。


加茂 秀隆 國學院大學(非常勤)

 

人間の視覚と認識のあり方に、 Henry James は格別に意識的な小説家であった。「世界へと開かれた窓」という比喩によって視線と認識が語られている The Portrait of a Lady のニューヨーク版の序文、複数の視点人物の導入によりマニエリスム的世界を現出させた The Wings of the Dove 、 A. R. Tintner らの研究によって明らかとなった絵画や写真への James の関心等々が、それを示している。 James 小説においては、あまりにしばしばこれと不可分に描かれるのが、主体の認識とその対象である客体との齟齬である。例えば、 James の幽霊は妄想、つまり錯視なのか、あるいは実在なのかという問いを呼ぶ彼の幽霊譚の捻りそれ自体が、 James の巧みな、視覚に付き纏う齟齬の可能性の隠喩であるように思われる。

この齟齬は James を強く引きつけたがゆえに、彼の他の主要な問題系とも相互に縺れ合って、その文学空間を織り上げているように思われる。この縺れを解きほぐし、その文学空間の探求の一座標となりうる星座の布置を織り上げること、これが本発表の目的である。視覚及びそれに取り憑く齟齬の可能性と関連付けて、本発表で論じられる他の問題とは、視覚と同様に James が幾度も描き続けた贈与である。視覚とそれに纏わり付く齟齬という問題を贈与とそれを範疇に納めるエコノミーと関連付け、これらが織り成す布置を James 作品に時に内在する構造として浮かび上がらせたい。

本発表における主たる読解の対象は、 Daisy Miller である。同小説の最後の件において、 Daisy は愛情に「報いた」 (“reciprocated”)というやや唐突な記述がある。これは贈与を範疇に納める経済的視点の、同小説における暗黙裏の機能を暗示する件であるように思われる。言うまでもなく、同小説は Daisy という若いアメリカ人女性をめぐる新旧大陸間の文化上の齟齬が引き起こす「社会的な動揺」についての物語であり、同小説において、この齟齬は Daisy に対する視線にも表れている。 James 小説にあっては、おそらくは幽霊譚における視線の問題へと発展するであろう、こうした齟齬をめぐる記述が、同小説の最終部において経済的視点を示唆する先の件の直近にも存在している。これは暗示的であるように思われる。つまり、齟齬に到る視線の問題と、時に贈与を核心に展開されるエコノミーのそれとは、 James にあってはやはり時に不可分なのではあるまいか。このエコノミーの問題は、同小説を含めた James の所謂、国際ものに端的に表れている当時の経済情勢をも無視できないはずであるがゆえに、それをも視野に入れて論を発展させることも必然的になるだろう。

こうした問題意識の下で同小説の読解をし、最終的には、 James 作品における齟齬の表れである視覚の構造を、与え且つ奪うという贈与のエコノミーとして解読し、更にはそのエコノミーとの緊張関係の下で成立する危ういバランス・シートの上に同小説が成り立っている様を論じてみたい。


堤 千佳子 梅光学院大学

 

Henry James の作品の舞台としてはヨーロッパの都市が取り上げられることが多い。James自身、親の教育方針によって幼少のころからヨーロッパで過ごすことが多く、後年はパリやロンドンでの生活が主となっていた。本発表で取り上げるヴェニスはJamesの関心を大いに引き、ヴェニスに関する紀行文を1872年から1902年にかけて執筆し、他の紀行文と共にそれをまとめたものをItalian Hoursとして1909年に発表したほどである。

Jamesにとってヴェニスとは何を象徴するものであったのか。この都市は主に二つの側面から描かれている。歴史や美術の都市としての側面、もう一つはかつての貿易の拠点であり、金融資本主義の中心地として富や財と密接に結びつき、それを表象する都市としての側面である。The Wings of the Doveにおいては後者の側面が強調されているが、その富が表象するものとして、Veroneseの絵画や宮殿という歴史的に価値あるものに関する記述が含まれる。例えばMilly Thealeの借りたPalazzo Leporelli はJamesと交流のあったアメリカ人であるIsabella Stewart Gardnerが別荘としたPalazzo Barbaroを髣髴とさせる。この邸宅は過去の栄光を表象すると共に、欲望を刺激するものでもある。そしてアメリカ人を含む新たな富裕層によって、その価値が可視化され、換金化され、所有権の移動すら起こるのである。

この作品の展開は、ヴェニス、ロンドン、ニューヨークという金融の中心地としての変遷の歴史とは逆の方向性を示しているのは興味深い。主人公Millyの人生はニューヨークの「あらゆる時代を受け継ぐもの」から、彼女の財産を狙うものたちとのロンドンでの出会いを経て、ヴェニスの「金メッキの貝殻」と描写される豪華な宮殿の中で最後の日々を孤独に暮らす「王女」のイメージへと集約される。ヴェニスを象徴する「翼のあるライオン」は、主要人物の一人であるMrs. Lowderについての記述「ランカスターゲイトの雌ライオン」へと繋がり、彼女は「市場のブリタニア」とも表現される。ニューヨークと密接に結びついているMillyの「途方もない富」は贈与によるもので、喪服によってその富が遺贈によるものであることが指し示されている。またMillyの遺言を伝える手紙はニューヨークからロンドンのDensherに届く。このことも金融の中心地の移動と重なりあう。そして富の入手方法にも交易から、財産目当ての結婚を含めて人間をその道具とみなす取引から、贈与へという変化が見られる。その一方でこの作品はKateとDensherの間にJamesの作品の中でも特にセクシュアリティを感じさせるロマンス的要素が随所に見られる。しかしこのロマンスの中にも取引という経済性が見られる。

本発表では、VeblenのThe Theory of the Leisure Classにおいて提示された顕示的消費文化が台頭する中、モダニティという観点から、主にThe Wings of the Doveにおいて、芸術や歴史と結びつき、人々の欲望を刺激する舞台としてのヴェニスについて検証し、その時代性や都市の扱い方、Jamesの作品における経済性について論考していきたい。