1. 第2室(2号館 2401室)

第2室(2号館 2401室)

開始時刻
1. 午後2時00分 2. 午後2時55分
3. 午後3時50分 4. 午後4時45分(終了5時30分)
司会 内容
 

1.セッションなし

高橋  勤

2.反転される語り― Hawthorneの“The Pygmies”における政治的側面をめぐって

  小久保潤子 : 大妻女子大学

藤田 佳子

3.Thoreauの “higher laws”―「身体と呼ばれる神殿の建築者」との関連において

  林 南乃加 : 九州大学(院)

4.“Are you victimizable?”―エマソンの西欧近代型自己の超え方

  堀内 正規 : 早稲田大学



小久保潤子 大妻女子大学

 

Nathaniel Hawthorneによって書かれたTanglewood Tales for Girls and Boys (1853)はA Wonder Book (1852)の続編とされている。そのため、ギリシア神話を子供向けに書き直した物語集として、両テクストの連続性や共通性のみが注目されがちである。しかし、A Wonder Bookが完成してからTanglewood Talesが出版されるまでの約1年の間に、Hawthorneは友人Franklin Pierceの大統領選キャンペーン用の自伝の執筆をはじめ、当時の政治的喧騒に深く巻き込まれていたという事実は看過できない。こうした経緯から、両テクストの間には何らかの断絶もまた起こっており、Tanglewood Talesの方がより政治性が色濃く反映されていると推定できる。本発表では、英雄ヘラクレスが共通して登場するA Wonder Bookの中の “The Three Golden Apples”とTanglewood Talesの中の“The Pygmies”を採り上げ、両者を照らし合わせることで浮上する19世紀アメリカにおける「他者/マイノリティ」の問題に焦点を当て、Hawthorneのテクストの政治的側面を垣間見たい。

“The Pygmies”は“The Three Golden Apples”の前日談という位置づけだが、両者は英雄ヘラクレスが巨人と争う、という点で共通性を持っている。しかし、 “The Three Golden Apples”では19世紀アメリカの白人男性のマスキュリニティが典型化された英雄ヘラクレスを主人公とし、その冒険を語るのが主眼とされているのに対し、“The Pygmies”では異形の巨人、及び彼の「弟」たちという設定でアメリカ先住民を想起させるピグミーたちが主人公として設定されている。つまり支配的白人にとっての「他者/マイノリティ」とみなせる巨人やピグミー側の物語が前景化されているのである。英雄ではなく「他者/マイノリティ」が主役の位置に置き換えられているという意味において、いわば、“The Pygmies”は“The Three Golden Apples”を反転させたプロットになっていると考えられる。“The Three Golden Apples”ではヘラクレスは「他者/マイノリティ」を征服する英雄として表象され、主体の位置を占めているのに対して、“The Pygmies”では巨人とピグミーの交流と友情の物語がクローズアップされ、ヘラクレスはそこに外部から侵入する「敵」、即ち巨人とピグミーにとっての「他者」に反転されている。

こうしたプロットの反転や「他者/マイノリティ」との境界の揺らぎは、アメリカの国家形成をめぐる支配的言説を解体する可能性を秘めているのではないか。本発表では “The Pygmies”において、英雄表象の相対化だけでなく「他者/マイノリティ」たちの物語へ光を当てるまなざしによって、白人中心の「アメリカ」という神話の相対化が行われていることについて検討したい。


林 南乃加 九州大学(院)

 

Walden (1854)の“Higher Laws”はThoreauの超絶思想の真髄をなす章である。当時の超絶思想は、ユニテリアン派から発展し、神の汎神論的存在や人間の堕落や原罪の否定を説き、救済は人間の内面において得られるという信仰を基盤とした。超絶思想の代表者R. W. Emersonは、自然の中に普遍的で神聖な霊性を認め、人間の内面を神格化した。この思想は、人間は直観によって真理を悟り、自己をより高い次元へと“transcend”させ、完全な存在になることができるという観念論であった。

1853年3月の日記でThoreauは、アメリカ科学振興協会から最も興味のある科学分野は何かと問われたと記している。日記によるとThoreauに関心があるのは「“the higher law”を扱う科学」であり、Thoreauは自身を“transcendentalist”と呼んでいる。“Higher Laws”で強調されているのは、「より高い原則」に則って生きることの重要さである。しかしこの章では“higher laws”についての明確な言及や定義が見られず、その語が何を意味するのかは明瞭ではない。

この章でThoreauは、旧約聖書における被造物のヒエラルキーの記述を念頭に置いていると思われる。Thoreauは“lower orders of creation”に属する動物に自己を重ね合わせ、他方では“high”なる人間としての“genius”を自己のうちに認める。Thoreauがより高い次元へと自己を高めていくプロセスには、“genius”に基づいて人間の獣的な側面を克服しようとする姿勢が見出される。「人間は誰もが身体と呼ばれる神殿の建築者である」と述べる一節は、聖書やEmersonの言説とも関連が見られるが、Thoreauは自己に内在する“god”を信仰の対象とし、身体と精神の両面において人間を神聖化する独自の哲学に立ち到る。

元来、“higher law”という概念は、「人間の法よりも優位の法」として解釈された旧約聖書におけるモーゼの十戒や、アリストテレスの“natural justice”、キケロの“natural law”に由来する。初期キリスト教の教父たちが説いた「神の法」は“natural law”と同義とされ、その考え方は後世に受け継がれた。聖職者や思想家の間でも「神の法」は永遠で神聖な法として尊重され続けた。この概念はまた、独立革命が起きる以前にアメリカに伝わった。19世紀初期には牧師W. E. Channingが奴隷制は“higher law”に反すると唱えている。このような宗教色の濃い“higher law”の概念は、Thoreauが身体を「神殿」と表現していることとどのように結びつくのだろうか。本発表は、「人間は誰もが身体と呼ばれる神殿の建築者である」という一節に着目し、歴史的文脈を持つ“higher law”をThoreauがいかに独自の人間観に組み込んだのかについて検証する試みである。


堀内 正規 早稲田大学

 

いたずらに批判の的にしないで,いまEmersonのどこをどう読む(べき)か。本発表では,Stanley Cavell, Richard Poirier, Sharon Cameron, Susan L. Field, Branka Arsićら、思想的なアプローチから優れた見直し作業をしてきた先行研究に随時言及しながら,エマソンの〈自己(self)〉の捉え方について,同種のアプローチを,しかし自分なりのスタンスでしてみよう。他なるものをappropriateする資本主義のイデオローグのような、個人主義の強化に掉さすエマソンという見方は、幸いにもようやく過去のものになりつつある。逆に,受動性,receptionを核とするエマソンを、わたしも語りたい。

主な考察の対象として,1844年刊行のEssays: Second Series所収の“Poet”と“Character”の二つのエッセイを取り上げる(補助線として“Gift”にも触れながら)。カヴェルに端を発するエマソンの思想的捉え直しにおいてpivotになってきたエッセイ“Experience”を間に挟むこの二つのエッセイは、一方で生成・流動を主観性の中心に据え、他方である種の揺るがなさとしての個性を肯定している。何ものにもなり得るmetamorphosisを軸とした想像力を謳うことと、置き換え不可能な〈その人らしさ〉の魅力を語ること―その意味で両者はエマソン的な自己の表と裏のようにも見える。だがそれはエマソンにおいて決して分裂ではなかった。双方において他方と還流し合うようなロジックやモチーフがあり、エマソンはあたかも両極が一人の人間(の行為)において常に統一されていることの不思議に打たれているかのようだ。Melvilleの主人公のように “No! in thunder”を発し,破滅も辞さずに解き得ないdichotomyにとことん身を委ねる人間のイメージの対極に、ふつうの仕事をする生活者の継続する日々(あるいは現実?)を、なるべく不自由なく生きるために、バランスをとるエマソンがいる。いずれにも偉さがあると思う。

壊れやすいふるえる自己。他者を所有の対象にしない自己。他人から褒められたときに必ずfearを感じる自己。以前わたしは論文の中でこれを「君の友を君自身から守れ」というエマソンの言葉を中心に捉えたことがある。“Character”の中の“Are you victimizable?”という問いは、誰もが本来的に可傷性を持つとみなし、他者の傷つきやすさを常に意識に繰りこもうとするエマソンの思想態度を端的に示している。エマソン独自の、魅力ある他人に対して自己の〈至らなさ〉を感じるような主観性のあり方に着目しながら、倫理性、(日常)言語への態度、詩人としての(人間の)位相、カテゴライズする体系の否定、見出しながらその都度の基礎づけをする態度など、上記の先行批評の論点もふくめて考察し、 Paul StandishのBeyond the Self (日本語版『自己を超えて』、2012)が批判的な乗り越えを目指す西欧近代的な自己(「つつしみ」の欠けた男性的な自己)の、エマソンならではの超え方(あるいはそれのずらし方、他者への応答責任を含みこんだ開かれ方)について語ってみたい。