1. 第9室(7号館5階D50番教室)

第9室(7号館5階D50番教室)

開始時刻
1. 午後2時00分 2. 午後2時55分
3. 午後3時50分 4. 午後4時45分(終了5時30分)
司会 内容
下條 恵子

1.Don DeLillo文学における対話のデザイン―その逆説性と創造性

  大阪大学(院) : 平川  和

貴志 雅之

2.意思をもつ作中人物―Hiroshimaを語るStar Trekに俳優がもたらす視点

  浜松学院大学 : 川口 雅也

3.ハワイ・ローカル劇の地理的起源

  慶應義塾大学 : 常山 菜穂子

 

4.セッションなし



大阪大学(院)平川  和

 

Don DeLilloの作品における登場人物たちの対話に耳を傾けたとき、読者は奇妙な感覚を覚えるはずである。DeLilloの登場人物たちの対話は人工的で現実味がなく、彼らは通常の対話をしているようには思えない。聞き手を目の前にしながら独白しているかのようで、彼らの対話は必ずしも噛み合っているようには聞こえないのである。しかしながら、この脱文脈的な対話が登場人物たちの精神に何らかの影響を与え、物語の大きな推進力となっているのもまた事実である。噛み合わない対話こそが、逆説的にプロットを展開させ、創造的に物語の深化をもたらす。これがDeLillo文学の大きな特徴の一つと言える。

DeLillo文学における対話のデザインをあえて一般化するならば、次のようなことが言えるだろう。(1)常に差延を生じさせつつ、対話が繰り返される。(2)そのような対話が蓄積されクライマックスに達したとき、「肉体性の表出」、「内破的状況」、ひいては「他者との混交」という状況が提示される。具体例としてWhite Noise(1985)を挙げてみよう。主人公Jackと妻Babetteは、死の恐怖を除去するという触れ込みの秘薬ダイラーの服用をめぐって夫婦関係に溝ができていた。二人は腹蔵なく対話することでその溝を埋め、秘密を共有するに至るのだが、今度はJackと娘Deniseの親子関係に溝ができ、事態は予想外の展開を見せる。すなわち、対話はある問題を解決する一方で、別の次元でさらなる問題を惹起し、そこにまた新たな対話の余地が生じる。このように差延を帯びつつ対話の可能性が繰り延べされた挙句、クライマックスでJackはホワイト・ノイズの権化とも言うべきMinkとの対話へ臨む。最終的に二人は銃の撃ち合いにより、「痛み」という「肉体的感覚」を介した対話を実践し(肉体性の表出)、Jackは「世界が内向きに崩れる」のを感じる(内破的状況)。その結果、JackとMinkの血が混ざり合い、「自己」と「他者」の境界は非常に曖昧になる(他者との混交)。

The Dialogic ImaginationにおいてMikhail Bakhtinは、“The development of the novel is a function of the deepening of dialogic essence, its increased scope and greater precision. Fewer and fewer neutral, hard elements (“rock bottom truths”) remain that are not drawn into dialogue. Dialogue moves into the deepest molecular and, ultimately, subatomic levels”と論じている。つまり、対話の深化により物事を極小レベルまで噛み砕き、その内奥へとさらに分け入ることで絶対的真理なるもの(“rock bottom truths”)を脱構築できるのである。この洞察は、DeLillo文学における対話の内破性を論じようとするとき、有効な導きの糸となる。主要作品において彼は、(1)、(2)のような対話の意匠を通して、ハイパーリアリティ、テロリズム、冷戦、サイバー資本主義などにおける絶対的(と思われている)言説の内部へ入り込み、それらを内側から切り崩すことで、アメリカ社会の実相を創造的に炙り出すことに成功している。DeLillo批評においては、David Cowartなどにより「言語」という観点からの研究はなされているものの、「対話」という観点からの具体的なアプローチはまだそれほどなされていない。本発表では、Bakhtinを援用しつつ、White Noise、Libra(1988)、Mao U(1991)、Underworld(1997)、Cosmopolis(2003)などの後期DeLillo作品における対話のデザインを探究していきたい。


浜松学院大学 川口 雅也

 

プロデューサーや脚本家の発言を聞く限りでは、Star Trek: Voyagerの一エピソード“Jetrel”(1995)はHiroshimaの隠喩ではあるものの、それが描こうとしたのは、加害者・被害者の区別なく戦争に関わったものが抱える心の傷と、そこから再生に向かう者たちの姿ではないかと思える。しかし、単独の作者の意図がそのまま反映される小説とは異なり、テレビ・ドラマにおいては、先にあげた制作者たちだけでなく、さらに多くの作り手たちの意図が混在しており、作品としての意図を明確に把握するのは容易なことではない。

活字媒体の狭義の文学においては、作中人物は作家という作り手の操り人形にすぎないが、テレビ・ドラマという映像媒体の文学における作中人物は、制作総指揮のプロデューサーの意図を反映するだけの存在にとどまらず、俳優が役作りの過程で作中人物に見出すことになる意思がそこに加わる。また、同じ映像媒体である映画とも異なり、連続したエピソードから成るテレビ・シリーズにおいては、演出をする監督以上に、レギュラーの俳優の意図が尊重され、プロデューサーも脚本家たちも、俳優の特性を活かして、そこから作中人物の性格を形成していこうとする傾向が見られる。“Jetrel”においても、複数の作り手たちの中での俳優の役割は大きく、演技によって意思をもつようになった作中人物は、作品の意図を形成する大きな要因となるのである。

“Jetrel”の結末で、大量殺戮兵器を発明・開発したDr. Jetrelを、その兵器によって家族・同胞を失ったNeelixは赦す。そのことでDr. Jetrelは罪悪感から解放され、Neelixもまた同胞を見殺しにしてしまったという罪悪感から解放される。しかし、それをそのまま作品の意図とみなすのは安易すぎる。それは脚本の範疇での作品理解でしかない。主人公Neelixが、俳優Ethan Phillipsによってどのように演じられているかを注意深く見て初めて、作品の意図を見出すことに至る。

媒体が何であれ、文学は「何」が語られるかということと並んで、それが「どのように」語られるかということが重要であることは言うまでもない。テレビ・ドラマにおいて「何」の基盤となるのが脚本であり、「どのように」の仕上げとなるのが演技である。その点において、主人公Neelixを演じる俳優Phillipsの演技が物語のトーンを決定づける。それゆえに、広島・長崎の惨劇を知る日本の視聴者にとって最も印象に残るのは、“Jetrel”がNeelixをつうじて被害者の視点からHiroshimaを語っているということである。

本発表においては、俳優Phillipsが“Jetrel”に込めた思いを重視し、彼と発表者との間で交わされたメールで語られた彼自身の言葉を主たる根拠に、脚本に書かれたト書き、および台詞が、彼によってどのように解釈され、演じられているかということに注意を払うことで、複数の作り手たちから成るテレビ・ドラマの中にあって、作り手の一部である俳優の演技が物語のトーンを決定づけ、その結果として“Jetrel”が原爆の犠牲者の視点からHiroshimaを語る作品になっているということを明らかにしたい。


慶應義塾大学 常山 菜穂子

 

1960年代のマイノリティ復権運動を受けて、アメリカ演劇研究の白人男性主義とテクスト重視傾向が見直された結果、「アメリカ演劇」が想定する範囲は人種・階級・ジェンダーの点でも、地理的・時間的制約やジャンル解釈の面でも格段に広がった。この新しいアメリカ演劇研究に今なお欠けているのが西海岸を越えたその先への視線であり、たとえば太平洋に浮かぶハワイにおける演劇文化・活動への注目である。

本発表が取り上げるハワイの初期演劇という領域は、これまで二重に置き去りにされてきた。なにより、ハワイの演劇そのものが、アメリカ演劇と演劇史の中で忘れられている。20世紀末に大きく書き改められた演劇史においてさえ、ハワイの演劇は、1970年代の日系アメリカ人による演劇活動の例としてほんの一行言及されるだけだ。アメリカ演劇研究が大西洋横断的視点に立脚していることは建国とその後の経緯を考えれば当然ではあるものの、1788年にアメリカの毛皮商人が初めてやって来て以来、ハワイはどの外国よりもアメリカと政治経済・文化面で密接な関係を築き、19世紀半ばからは数多くのアメリカのスター役者や劇団が巡業に来ていたことも、また確かなのである。

近年では、このような空白を補完すべく、「ローカル劇 (local theatre)」と呼ばれる、ハワイの土地と人びと、文化、生活に深く関わる演劇活動とその研究に光が当てられている。とりわけ、本格的な専門劇団Kumu Kahuaが活動を始めた1970年代以降、こんにちまで、ローカル劇はハワイにおける歴史とアイデンティティの問題を提起し続けている。一方で、その起源はあいまいなままだ。ローカル劇研究の第一人者Dennis Carrollが“This ‘local’ theatre began quite early in the century”と述べるように、20世紀初めの地元アマチュア演劇やハワイ大学における演劇活動が発端になったと思われるが、ハワイにおける初期演劇の状況はいまだ不明なままなのである。ローカル劇はハワイという場所に根ざす歴史的背景と民族構成に大きな影響を受けている。こうした、ローカル劇の「ローカル性」はいつ、いかにして得られたのだろうか。

この疑問を解決すべく、本発表ではまず19世紀末から20世紀初頭にさかのぼって、ローカル劇以前とローカル劇の最初期の演劇状況を、当時の新聞・雑誌、年鑑の記事や写真をもとに再現したい。その上で、このような初期演劇の内にローカル劇をローカル劇たらしめる特色の萌芽を見い出し、19世紀大衆演劇の時代から小劇場運動を経てローカル劇発展へとつながる道筋を明らかにする。太平洋の真ん中に浮かぶ島であるというハワイの地理的特性と、その位置に由来する歴史的・文化的・政治経済的環境がハワイの演劇文化形成に与えた特異な条件が明らかになるだろう。