1. 1.“Toll the Bell for My Boy”− Zora Neale HurstonのSeraph on the Suwaneeにおける優生学と障害

1.“Toll the Bell for My Boy”− Zora Neale HurstonのSeraph on the Suwaneeにおける優生学と障害

立教大学(非常勤)石川 千暁

 

Zora Neale HurstonのSeraph on the Suwanee (1948)は、代表作Their Eyes Were Watching God (1937)とは異なって、白人のヒロインを描いていること、さらにそのヒロインがフェミニスト的な魅力を欠いていることから、多くの批評家を困惑させてきた。Arvayは劣等感が強く、夫Jimに対する服従を小説の結末に至るまで繰り返す人物であるのだが、彼女が実業家の夫に決定権を託すことを厭わない背景には階級的な不安があると指摘されてきた。Chuck JacksonはArvayの不安に20世紀前半のアメリカにおける優生学的な言説の影響を見、白人でありながら社会の役に立たない屑と見なされるホワイト・トラッシュという出自に注目して、Hurstonにおいて人種という概念は、階級やジェンダーといった他のアイデンティティ・カテゴリーだけでなく、身体の根源的な不純さと交差するものとして理解されていたと結論付けている。

優生学の歴史に言及しつつも、身体の不純さという一見普遍的な概念を持ち出すことで、Jacksonの議論は、おそらくHurstonが意識的に書き込んで問題化しようとした身体のヒエラルキーの政治性をかえって見えにくくしてしまっているように思われる。Arvayがたとえトラッシュと呼ばれようとも生き延びる一方で、社会の一員として存在することを許されない身体を持った人物もまた本作には登場するのだ。障害をもって生まれてくる息子Earlである。

頭髪、睫毛、指、手、頭のかたちに異常が見られるEarlは、Arvayによれば「頭の中がおかしい(queer)」伯父のChesterに似ている。長男であるにもかかわらず生まれてきた子に名を与えようともしない夫Jimに対し、「赤ん坊の欠陥(defects)はArvayの愛を高めるばかりだった」と述べられる。やがてEarlが身体的に成長し、人々の脅威として捉えられるようになると、JimはEarlを施設に収容する計画を立てる。Arvayは反対し、Earlを逃がす。集落の男たちに追われてライフルを構えたEarlを、Jimが射殺する。死を以てEarlは「平安にようやく辿り着いた」と考えてはばからないJimに対し、Arvayは悲しみに打ち拉がれるが、やがて死を弔うことに賛同する―「私の息子のために鐘を鳴らしてちょうだい」。

本発表は、Earlをめぐる優生学の知識や実践がJimという家父長との関連において批判的に描かれている様を考察する。「私の息子のために鐘を鳴らしてちょうだい」というArvayの発言は、せめて弔いにおいてEarlが他の人間と同様の扱いを受けるべきだと主張していると同時に、そのような扱いがすでに手遅れだという空しさをこだまさせてもいる、Hurstonの詩的な批判であると考えられる。その一方で、アメリカ文学における身体障害者の表象についての研究書を著したRosemarie Garland Thomsonが述べるように、歴史的に深くスティグマ化されてきた障害を議論するにあたっては、現実と表象のギャップにも十分な注意を払う必要がある。Hurstonの障害者に対する偏見は否定しがたく、身体的な異常が知的な障害の根拠とされている点、知的な障害を攻撃的な性格と結び付けている点など、一般に共有されている知的障害者に対する偏見を無批判になぞっていると言っていい。さらには障害学研究の代表的な研究者であるLennard Davisの議論を参照しながら、「正常」な人物との同一化を促す小説の構造についても考察する。