1. 第8室(7号館4階D42番教室)

第8室(7号館4階D42番教室)

開始時刻
1. 午後2時00分 2. 午後2時55分
3. 午後3時50分 4. 午後4時45分(終了5時30分)
司会 内容
長澤 唯史

1.“Toll the Bell for My Boy”− Zora Neale HurstonのSeraph on the Suwaneeにおける優生学と障害

  立教大学(非常勤) : 石川 千暁

2.アメリカ文学史のイスラーム―第二次報告

  常磐大学 : 外山 健二

ウェルズ 恵子

3.コズモポリタン・ノスタルジア―Longfellow、Voorhies、そしてFaulknerの音楽表象

  慶應義塾大学(非常勤) : 山根 亮一

平野 順雄

4.地理的想像力の変遷―Pound から Snyder へ

  和光大学 : 遠藤 朋之



立教大学(非常勤)石川 千暁

 

Zora Neale HurstonのSeraph on the Suwanee (1948)は、代表作Their Eyes Were Watching God (1937)とは異なって、白人のヒロインを描いていること、さらにそのヒロインがフェミニスト的な魅力を欠いていることから、多くの批評家を困惑させてきた。Arvayは劣等感が強く、夫Jimに対する服従を小説の結末に至るまで繰り返す人物であるのだが、彼女が実業家の夫に決定権を託すことを厭わない背景には階級的な不安があると指摘されてきた。Chuck JacksonはArvayの不安に20世紀前半のアメリカにおける優生学的な言説の影響を見、白人でありながら社会の役に立たない屑と見なされるホワイト・トラッシュという出自に注目して、Hurstonにおいて人種という概念は、階級やジェンダーといった他のアイデンティティ・カテゴリーだけでなく、身体の根源的な不純さと交差するものとして理解されていたと結論付けている。

優生学の歴史に言及しつつも、身体の不純さという一見普遍的な概念を持ち出すことで、Jacksonの議論は、おそらくHurstonが意識的に書き込んで問題化しようとした身体のヒエラルキーの政治性をかえって見えにくくしてしまっているように思われる。Arvayがたとえトラッシュと呼ばれようとも生き延びる一方で、社会の一員として存在することを許されない身体を持った人物もまた本作には登場するのだ。障害をもって生まれてくる息子Earlである。

頭髪、睫毛、指、手、頭のかたちに異常が見られるEarlは、Arvayによれば「頭の中がおかしい(queer)」伯父のChesterに似ている。長男であるにもかかわらず生まれてきた子に名を与えようともしない夫Jimに対し、「赤ん坊の欠陥(defects)はArvayの愛を高めるばかりだった」と述べられる。やがてEarlが身体的に成長し、人々の脅威として捉えられるようになると、JimはEarlを施設に収容する計画を立てる。Arvayは反対し、Earlを逃がす。集落の男たちに追われてライフルを構えたEarlを、Jimが射殺する。死を以てEarlは「平安にようやく辿り着いた」と考えてはばからないJimに対し、Arvayは悲しみに打ち拉がれるが、やがて死を弔うことに賛同する―「私の息子のために鐘を鳴らしてちょうだい」。

本発表は、Earlをめぐる優生学の知識や実践がJimという家父長との関連において批判的に描かれている様を考察する。「私の息子のために鐘を鳴らしてちょうだい」というArvayの発言は、せめて弔いにおいてEarlが他の人間と同様の扱いを受けるべきだと主張していると同時に、そのような扱いがすでに手遅れだという空しさをこだまさせてもいる、Hurstonの詩的な批判であると考えられる。その一方で、アメリカ文学における身体障害者の表象についての研究書を著したRosemarie Garland Thomsonが述べるように、歴史的に深くスティグマ化されてきた障害を議論するにあたっては、現実と表象のギャップにも十分な注意を払う必要がある。Hurstonの障害者に対する偏見は否定しがたく、身体的な異常が知的な障害の根拠とされている点、知的な障害を攻撃的な性格と結び付けている点など、一般に共有されている知的障害者に対する偏見を無批判になぞっていると言っていい。さらには障害学研究の代表的な研究者であるLennard Davisの議論を参照しながら、「正常」な人物との同一化を促す小説の構造についても考察する。


常磐大学 外山 健二

 

この研究では、アメリカ文学史にイスラームの視点を導入し、アメリカ文学史に新たな枠組みを提示することを狙いとする。今回の発表では、ことを念頭に、次の三つのアプローチを試みる。

第一に、アメリカ文学史の歴史的過程を踏まえ、19世紀から20世紀にかけて著述された、アメリカ文学史に表れるイスラーム表象を追究する。Fred Lewis Pattee, A History of American Literature (1896)等を手始めに検証するが、19世紀におけるの萌芽期を意識し、アメリカ文学史におけるイスラーム表象を問う。文学史上に表れた、Herman MelvilleやMark Twainの、Ernest Hemingwayの、John Dos PassosやJames Baldwinの等が対象となるだろう。

第二に、カノン(正典)形成で問題視される白人男性中心主義等の権威や、国家主義などから反映される文学的価値を検証する。これを通じてイスラームが排除され、あるいは表象されるプロセスを追究する。そのためには、新批評からポストコロニアル批評やカルチュラル・スタディーズへといったそれぞれの批評理論をもとに、作家や作品群をするアメリカの複雑な社会や政治的プロセスを追究する。この過程で、カノン形成の際にされるイスラーム的文学の価値を追究する。

第三に、以上の成果を踏まえアメリカ文学史のに迫りたい。上記の二点から、それぞれの時代に書かれたにみられるイスラームの欠如や排除、さらにはイスラーム表象に対して価値の与え方に差異があることが判明する。各時代のに表れたイスラームへの価値観を再整理し、その体系を明示したい。そうすることで、イスラーム表象に関するプロセスの追究を踏まえ、それぞれのイスラームへのアプローチに存在する価値観の差異から、どのようなが見えてくるのか、あるいはその差異を現代の視点から眺めたとき、どのようにを可能なのか、考察する。なかでも近年注目されているポストコロニアル文学の手法では、植民地的な、あるいはポストコロニアル的な視点での文学史のという実践が期待される。

なお、今発表は、2013年11月にチュニジアで開催された、チュニジア―日本 文化・科学・技術学術会議における研究発表「アメリカ文学史のイスラーム――第一次報告」でのRoyall Tyler, The Algerine Captive (1797)のイスラーム等の議論を踏まえたもので、第二次報告となる。


慶應義塾大学(非常勤) 山根 亮一

 

民族や国境を超えて、物語は反響する。Henry Wadsworth Longfellowは、1755年のアカディアン強制追放をめぐって起きた若い男女の悲劇を、長編の無韻六脚詩として1847年に発表した。「エヴァンジェリン」(“Evangeline”)というアカディアン女性の名を冠したその作品は、フランス語に翻訳されながら、大西洋周辺地域に散らばったこの悲劇の犠牲者達、つまり、英領ノヴァスコシアから北米のイギリス植民地、仏領ギアナ、フォークランド諸島、カリブ海の島々など様々な場所へ追放されたアカディアン達自身の間でも広く親しまれた。大西洋のディアスポラとなったこの民族は、その後、自己言及的なアイデンティティー構築を模索し、1907年にはルイジアナ州の判事Felix Voorhiesが、小冊Acadian Reminiscence: The True Story of Evangelineを書いて、アカディアンの物語をニューイングランド詩人の想像力から取り戻している。そして1931年にエヴァンジェリンの名は再び別の作家の手に渡るのだが、このときアカディアンの悲劇は、LongfellowやVoorhiesのものとは明確に異なる民族性を帯びることになる。後にAbsalom, Absalom! (1936)へと発展するWilliam Faulknerの短編、“Evangeline” (1979年に死後出版)では、実はエヴァンジェリンという登場人物はいない。だが、このタイトルを据えることで、Faulknerは強制追放で破綻した若きアカディアン夫婦の結婚の物語を、ジム・クロウ法時代のアメリカ南部における異人種間結婚をめぐる悲劇へと重ねているのである。別々の主体位置に状況付けられた語り手達を繋げ、アメリカ建国以前のカナダから大恐慌時代のアメリカ南部まで反響するエヴァンジェリンの物語は、国際化する今日のアメリカ文学の領域において何を語り得るのだろうか。

エヴァンジェリンという固有名をめぐる作品群を通じて、本発表はアカディアからルイジアナを経てミシシッピにまで至る民族主義の系譜学を読み解きながら、グローバル・ステイトにおける帰属と連帯の両義性について考察する。この企図にとって重要な参照枠となるのは、Judith ButlerとGayatri Spivakの対談、Who Sings the Nation-State?: Language, Politics, Belonging (2007)である。とりわけ、2006年のカリフォルニア州で起きたアメリカ不法滞在者の街頭デモ、つまり、アメリカ国歌をスペイン語で歌うことによる対抗ナショナリズム的パフォーマティブについての論考は、本発表にとって興味深い。ここでは国歌と国家を接続することで、グローバリゼーションの流れに晒された国民国家(nation-state)の混乱した状態(state)が巧みに指摘されている。しかしながら、この二人の議論は国歌/国家について思索しながらも、主に言語的な帰属意識の表象、換言すれば、2011年にJoshua L. Millerが同じ街頭デモの国歌/国家の翻訳に言及して定義した様な、様々な異文化が交渉し混淆し合う場としての言語政治(language politics)の枠内から逸脱しない。その一方で、前掲したエヴァンジェリンの物語は、共通して歌詞の無い音楽を各々のノスタルジアに添え、想像の共同体を幻視させる。それらの書かれた音楽、つまり文学作品における非言語的表象の諸相を比較することで、言語政治に付随する民族主義的な帰属意識を再考し、様々な時空におけるデラシネ的主体の連帯の可能性を探ることが、本発表の最終目標である。


和光大学 遠藤 朋之

 

本発表においては、詩におけるモダニズムの創始者である Ezra Pound の「地理的想像力」とも言える時間認識が、いわゆる “Pound Tradition” の詩人のひとり、Gary Snyder において、いかに受け継がれていったか、あるいは、 Snyder がいかに Pound の「地理的想像力」を北カリフォルニアという場で実践に移しているのか、それを検証してみたい。さらに、「地理的想像力」を「実践」へと開いていった結果、必然的に生まれる 「地域生態主義(“bio-regionalism”)」 の思想へのアプローチとしてみたい。

Pound は、その詩人としての出発点から、時代を水平的にとらえる意識、「地理的想像力」とでも呼ぶべき意識をもっていた。この意識は、時間を通時的ではなく共時的にとらえようとする意識のことである。さらに、このことは「地中海」というよすががあってこそ可能になった考え方である。この詩人がはじめて物した書物、ロマンス文学の研究書であるThe Spirit of Romance において Pound は、 “It is dawn at Jerusalem while midnight hovers above the Pillars of Hercules [Gibraltar]. All ages are contemporaneous” と語っている。前段は地中海の東端と西端を引き合いに出し、地中海が経度、つまり東から西への時間の推移によってその様相を変えることを語っているように思われる。しかし、その直後にくるのは、「あらゆる時代は同時代だ」という断言である。つまり Pound は、エルサレム、そしてジブラルタルでの様相の違いは、地中海という一平面上のたんなるヴァリエーションにすぎない、と語っているわけだ。

このことからわかるのは、Pound は「地理的想像力」を「文学」という枠にあてはめて語っている、ということだ。 Pound にとって、「地理的想像力」は、古今東西の文学作品を等価のものとして捕えるためのメタファーである。

一方 Snyder は、Pound から受け継いだメタファーとしての「地理的想像力」を、北カリフォルニアという地勢においてリアリティとして語る。つまり、Pound にとってはメタファーである「地理的想像力」を、Snyder は「実践」として語り、それを詩にしている。

本発表においては、まずは、Pound の「地理的想像力」がどのようなものであったか、初期の散文、そして実作において検証する。その上で、Snyder が Pound のメタファーとしての「地理的想像力」をいかに「実践」へと導入していったか、それを探ってみたい。Snyder の作品は、初期のものを主に扱う予定だが、そのほかにも、 Mountains and Rivers Without End からの作品も視野に入れておきたい。