1. 第7室(7号館4階D41番教室)

第7室(7号館4階D41番教室)

開始時刻
1. 午後2時00分 2. 午後2時55分
3. 午後3時50分 4. 午後4時45分(終了5時30分)
司会 内容
小林 富久子

1.民俗学と文学のはざまで―Gloria NaylorのMama DayにみるMarie Laveau像

  京都大学(院) : 柳楽 有里

2.Leslie Marmon SilkoのCeremony における文化的多様性と環境的ヴィジョン

  広島大学(院)/学振研究員 : 黒住  奏

鵜殿えりか

3.トランスアトランティック・シンパシー―Jhumpa Lahiriの“Hema and Kaushik”における感傷とサイケデリック・ロック

  慶應義塾大学(院) : 志賀 俊介

Michael Gorman

4.Chang-rae Lee’s Literary Palimpsests in Aloft

  成城大学 : Yuko Matsukawa



京都大学(院)柳楽 有里

 

Mama Day (1988)はGloria Naylorの第三作目の長編小説である。Mama Dayは、現実的な問題を直視した第一作と第二作の作品とは大きく異なり、マジックやファンタジーの要素を多く含んでおり、これにはブードゥー教が大きく影響を及ぼしている。薬草を使った治療、conjurer(魔術師)による呪いなど、ブードゥー教に関係するモチーフが繰り返し登場する。ブードゥー教はNaylorに限らず現代黒人女性作家達が度々使用するモチーフの一つではあるが、“conjure woman” (女魔術師)はMama Dayの展開において重要な役割を担っている。

アメリカ文学において、ブードゥー教の魔術師の伝説を再読し、それが文学作品に与えてきた影響を議論する研究は既に始まっている。批評家たちは、キャノン作家達によって魔術師に付与された負のイメージを指摘している。例えば、Arthur MillerのThe Crucible (1953)に登場するTitubaである。Chadwick Hansenは、Titubaは実はバルバドス出身の奴隷であったと指摘している。すなわち、魔術師の伝説が文学において再生産される過程で、魔術師は邪悪なアフリカン・アメリカンである、というステレオタイプを生み出してきたのである。それらに呼応するかのように、黒人作家達は女魔術師をヒロインとして作中に埋め込むことでイメージを再構築している。 Mama Dayはその一つとして挙げられるだろう。

Mama Dayにおいては、さまざまな二項対立が多層的に交差している。Georgeという既に死亡しているニューヨーク出身の男性と、Cocoaという島の女性の語りを用いることで、地域、性、生と死といった境界線を曖昧にしていることは批評家たちが指摘する通りである。魔術師は、それらの複雑に絡み合う対立の一つであり、ひいてはキリスト教とブードゥー教の対峙という観点から見られがちである。しかし、New Orleansなどに点在するブードゥー教を議論するうえで、西洋的な二項対立に依拠した視点からのみ作品を論じることには限界がある。また、Naylorが女魔術師を使用することでキャノン作家達が構築した魔術師に対する負のイメージを単に書き換えている、という議論だけでは不十分である。

本発表では、作品に登場する女魔術師Sapphira Wade とMiranda Dayを中心に、New Orleansで語り継がれてきたMarie Laveauの伝説と比較し、女魔術師がこの作品においてヒロインとして生まれ変わることで、付与されてきたステレオタイプをいかに脱却しているかを検証する。主に取り上げる伝説は、今なお巡礼者が後を絶たないMarie Laveauである。黒人女性作家の先駆者的存在であるZora Neale HurstonがMules and MenでMarie Laveauを取り上げていることは言うまでもない。また2000年以降相次いでMarie Laveauの伝記が出版されており、このことは民俗学におけるMarie Laveauの重要性を裏付けるものとなっている。HurstonからNaylorに受け継がれた文学におけるMarie Laveauの伝説の受容を考察することは、Naylor作品の理解に重要であると考えられる。


広島大学(院)/学振研究員 黒住  奏

 

1948年にニューメキシコ州アルバカーキのラグーナ・プエブロ族の居留地で生まれ育ったLeslie Marmon Silkoは、自分のエスニシティをラグーナ・プエブロ族、メキシコ人および白人であると述べているように多様な人種の血筋を引く現代アメリカ先住民文学を代表する作家の一人である。彼女の故郷であるニューメキシコは、ラグーナ・プエブロ族やナバホ族などのアメリカ先住民の居住地、メキシコとの隣接地、またスペイン人の入植地であり、様々な文化が交差する地である。白人の入植以来、目まぐるしく変化する環境の中で部族の土地を追われ西洋文化を強要されたアメリカ先住民たちは、部族の伝統文化に西洋文化を取り込み変容させることで、なんとか自分たちの伝統を保持してきた。Lawrence Buellが、The Environmental Imagination で“hybridized vision”と呼ぶ文化的多様性は、SilkoのCeremonyにおいて注目すべき特徴の一つである。

本作品の主人公である青年Tayoは、ラグーナ・プエブロ族とメキシコ系アングロサクソンの混血であり、幼い頃から混血の私生児として、部族のコミュニティから疎外される立場にあった。さらに第二次世界大戦に参戦し、戦地フィリピンでの悲惨な体験はTayoの心身を蝕むこととなる。完全なラグーナ・プエブロ族でもなく、メキシコ人でも白人でもないTayoは、異文化の境界で揺らぐ存在として描かれている。

退役軍人としてニューメキシコの居留地に戻り、戦争神経症に苦しみながらも、部族の伝統の中に癒しを求め、Tayoは自己回復へと向かっていく。自己喪失に苦しむTayoが癒されてゆく物語は、神話の要素と絡み合いながら構築されており、神話の主人公のように、人間と自然の関係を取り戻すことによってTayoの癒しは完遂される。

混血の主人公の部族アイデンティティの回復は、現代アメリカ先住民文学における中心的テーマであるが、自然と人間のバランスのとれた相互関係がアメリカ先住民のアイデンティティの回復において最も重要な要素であるということは注目すべき点である。ラグーナ・プエブロ族の一人の青年の自己回復の物語は、部族の神話のみならず、白人による土地の植民地化や第二次世界大戦といった歴史的事実を取り込みながら、ニューメキシコの辺境の地から、アジアへ、そして地球全体へと広がっていく。このことは、環境破壊が進んで自然と人間の相互関係の崩壊が地球規模となっている現代においてTayoが自己回復を達成するには地域や人種という境界を越えなければならないことを示しているといえる。そこで、本発表では、Tayoの混血性をはじめとする本作品の文化的多様性について考察し、人間と環境のつながりに焦点を当てることで、混血性、社会的不平等および環境問題の複雑な関係を読み解いていく予定である。余裕があれば同作者のAlmanac of the Deadについても論考したい。


慶應義塾大学(院) 志賀 俊介

 

インド系アメリカ人作家Jhumpa Lahiriの中編小説“Hema and Kaushik” (2008)において、感傷小説とロックンロールの二つの要素は切っても切り離せない。

アメリカ文学史上初の小説とされるWilliam Hill BrownによるThe Power of Sympathy (1789)のタイトルが示す通り、アメリカの建国とシンパシーの概念は密接に関係している。Lahiriは“Hema and Kaushik”の中にシンパシーを埋め込み、伝統的な感傷小説を再創造してみせた。

さらに、作中で言及されるThe Rolling StonesやJimi Hendrixといった1960年代のロックンロールに対する造詣の深さは、インド文化の影響が強いサイケデリック・ロックと無縁ではない。The Rolling StonesとHendrixは、大西洋を挟んだイギリスとアメリカの間を行き来し、黒人と白人の音楽スタイルを巧みに取り入れた。しかし、そこには表面上のスタイルに潜む人種的なニュアンスがあったことも忘れてはならない。The Rolling Stonesはアメリカの黒人ブルースの影響を色濃く反映した音楽を作り、聴衆の支持を得た。そしてHendrixはアメリカからイギリスに渡って白人が求める音楽を感じ取り、Jimi Hendrix Experienceを結成した。当時Hendrixが“Psychedelic Uncle Tom”と形容された事は、James BaldwinがHarriet Beecher StoweのUncle Tom’s Cabin (1852)について、作中の黒人達は白人の求める黒人の姿であると批判した事を想起させる。自身の黒人としてのエスニシティを白人の音楽スタイルの下に隠したHendrixは、黒人のコミュニティに受け入れられない事への不満を次第に募らせていき、晩年には奥底に潜めていた自身のエスニシティを爆発させるに至った。

“Hema and Kaushik”の主人公であるHemaとKaushikは、自身の感情を奥に秘めながら大西洋の上を行き来する。十代の頃に出会い、四十代になって再会した二人は、共通する感傷的な感情―Kaushikの母の死に対する感情―を奥底に沈めていた。作中に言及されるThe Rolling StonesのLet It Bleed (1969)に見られるLahiriのロックミュージックへの言及は、作者の描く感傷性のあり方を暗示する。そして、その内奥に秘められた感情は、アメリカ社会の中で生き延びるためにモデル・マイノリティを装うことで自身のエスニシティを隠さざるを得ないインド系移民と重なる。Kaushikが母の死に関して感情を爆発させ暴力的になる場面は、自身のエスニシティに意識的になり、1969年のウッドストック・コンサートでヴェトナム戦争の暴力性をギターで再現してみせたHendrixを思い起こさせる。そして再会を機に、HemaとKaushikはそれまで語る事のなかった感情を解放するが、二人が選んだ別々の道が示唆するものは、インド系移民のアメリカ社会における現実なのである。

本発表では、Lahiriが“Hema and Kaushik”において伝統的な感傷小説のスタイルを用いながら、インド文化の影響が色濃い1960年代のロックの要素を散りばめることで、いかにインド系移民の視点よりアメリカ史の再構築を試みたかを検証したい。


成城大学 Yuko Matsukawa

 

Many reviewers have noted that the protagonist of Chang-rae Lee’s novel Aloft (2004), Jerry Battle, is a descendant of other middle-aged denizens of literary suburbia. For instance, in her New York Times review, Michiko Kakutani calls Jerry “a spiritual relative of . . . John Updike’s Harry (Rabbit) Angstrom” and describes Jerry’s terrain as “a small patch of Long Island somewhere between Cheever country and Gatsby’s vanished green Eden.” Lev Grossman, writing for Time, notes, “Lee isn’t the first to point out that the suburbs hide uncharted depths of misery and discontentment―Updike, Rick Moody and John Cheever, among many others, have been here before.”

Indeed, Aloft can easily be read as a novel that is concerned with real estate, class, and the lives of the people who live in suburbia. This makes the novel familiar, with its retired Italian American male protagonist whose life is falling apart in the suburbs, but it has also disappointed some reviewers because they see it as a typical male mid-life crisis novel, formulaic and clichéd.

I see Aloft as going beyond the simply formulaic: Lee takes advantage of the form of the suburban novel to engage in conversations with previous literary works to respond to issues of representation and reimagine those works in the twenty-first century. He does this through Aloft’ s literary allusions to works by writers such as Updike and Cheever―the more obvious suspects―but also earlier writers who predate the post-World War II surge in suburban growth in the United States. For example, that Jerry’s long-deceased Korean wife is named Daisy immediately conjures up images of Daisy Buchanan from F. Scott Fitzgerald’s The Great Gatsby as well as the protagonist of Henry James’s Daisy Miller. In Aloft,Jerry’s ex-girlfriend Rita points out how central Daisy is to Jerry’s existence: “But everything you do―or don’t want to do, more like―has an origin in what happened to Daisy, which at this point is really what happened to you.” Aloft’s Daisy eerily follows the trajectory of those previous Daisies who were tragic and unreadable objects of desire; furthermore, by making his updated Daisy Korean, Lee also charts the porous racial contours of contemporary American life. In this presentation, I explore how Lee simultaneously maps and criticizes his literary heritage through these palimpsests he creates in the novel.