1. 第6室(7号館4階D40番教室)

第6室(7号館4階D40番教室)

開始時刻
1. 午後2時00分 2. 午後2時55分
3. 午後3時50分 4. 午後4時45分(終了5時30分)
司会 内容
高野 泰志

1.“Out of Season” で描かれている虚構世界

  京都大学(院) : 尾島 智子

2.Nine Storiesを流れる特異な時間

  青山学院大学(非常勤) : 加藤  宏

舌津 智之

3.Flannery O’Connorの葛藤―Wise Bloodにおける口の表象

  北海道大学(院) : 小塩 大輔

新田 玲子

4.創作と盗作―Cynthia Ozickの “Usurpation (Other People’s Stories)”における創造の問題

  日本女子大学(院) : 秋田 万里子



京都大学(院)尾島 智子

 

Ernest Hemingwayの最初期短編の一つ “Out of Season” についてのこれまでの研究では、作品世界そのものが十分に吟味されてきたとは言い難い。作品外の作家の実人生や彼自身の発言と関わらせたアプローチにおいては言うまでもなく、作品世界を対象とした場合でも、書かれていない部分を想像力で埋めるといった作業の中で、作品自体の分析がおろそかにされてきた。その結果、未だ作品の本質を解明するには至っていない。本発表では、言葉、イメージ、音の側面から作品を総合的に吟味しながら、物語で重要な機能を果たすwalking「歩行」を中心に、描かれている世界の意味を探りたい。

登場人物間のちぐはぐな関係性を描いたこの作品では、多くの場面が客観的描写の羅列で成り立っている。旅行者である夫婦が、主人公Peduzziと一緒に釣りに出かける道中、酒を買いに入った店の中の描写では、人物たちを描く簡潔な文がただ積み上げられているだけである。描かれる人間関係についても、それぞれの思いに従う人物たちに関わる記述が提示されているに過ぎない。

この作品全体も、実質的に相互に関連性のないエピソードの羅列によって成り立っている。そうした物語に一貫性を与えているのが、登場人物たちのwalkingである。三人が歩くという設定は、前半から各場面の冒頭で繰り返されている。walkingとそのイメージは、物語終盤における[f]音の連続的使用によって、読者に印象づけられている。主人公の言葉の中で多用されている[f]音は、walkingの本来の目的であるfishingを思い出させ、その不実現を読者に意識させていると言える。最後に読者の前には、歩行の空しさだけが、強く浮かび上がる。そうしたwalkingは、一見目的を持つかに見えながらその実、種々の出来事を抱えたままただ過ぎ行く日常の世界の比喩表現となっているのである。

Dewey Ganzelは、作品の第一版で認められた引用符の省略を取り上げている。引用符によって、受け手である読者が認識させられるはずの、会話文と地の文の間の区別が取り除かれている点を含めた表現上の特徴に言及するGanzelは、意味伝達の役割を担う“narrative authority”の欠如が、読者に意味の推測を促していると指摘する。引用符が取り払われることで、発話部分の自律性が抑えられたまま、人物の対話は提示されることになっている。語り手は、一貫性をもった意味伝達をあえて放棄したように見せる工夫をしているのである。こうして、読者は、無秩序に展開する世界をそのまま受け取らされることになる。このような物語のエピソードを繋ぎ、物語進行そのものを支えているのもまたwalkingである。噛み合わない登場人物たちの無目的な歩みと、不条理に語られ続けることで創造されるこの物語は、表裏の関係にあると言える。本発表では、この作品の独自性を主張するGanzelの議論を掘り下げると同時に、walkingの役割の解明を通じて、この作品の隠された本質に迫りたい。


青山学院大学(非常勤)加藤  宏

 

Salingerは1953年、それまで雑誌に発表した短編小説の中から9編を選びNine Storiesとして出版した。この9編を選んだ基準、それぞれの短編の共通点はなんだろうか。従来、この短編集の冒頭に掲げられた禅の公案の中にある“the sound of one hand clapping”(「片手の鳴る音」)が登場人物の内面に鳴り響く瞬間がそれぞれの作品内で描かれている、という解釈がよくなされてきた。本発表ではそれをさらに進めて、Nine Storiesの各短編の中に、「片手の鳴る音」という、理屈では理解できない音を聞くための特異な状況に焦点を当てたい。それは、物語を流れる時間が、不自然に歪んでいることである。

例えば、“For Esmé-with Love and Squalor”において、物語の前半のEsméと語り手の出会いのわずかな時間の様子が細かく描かれる一方、その後語り手が参加したノルマンディー上陸作戦を含む激しい戦闘のあった長い時間は、大胆に省略される。後半では語り手と同一人物と思われるSergeant Xは、その空白の時間を経て精神を病んでいる様が丁寧に描写される。読者はその描かれなかった時間に語り手を含む登場人物に起こった出来事を、少しずつ明らかにされる断片から想像するしかない。また、物語の最後に示されるEsméからの手紙によって、語り手とEsméの最初の出会いの日時が示されるが、それが前半の語り手の説明と矛盾する。さらに、“De Daumier-Smith’s Blue Period”において、語り手が掲示する物語の時間・年月が明らかに矛盾している。それを作者Salingerの単純な間違いと捉え、テクストの年号を変更した出版社もあるが、それでも矛盾が解消されないほど時間が入り組んでいる。さらに、語り手は夢中になって深夜に手紙を書くが、それを実際に投函した時間が30分ほど逆行して示される。

時の歪みはひとつの物語の中だけにとどまらない。“A Perfect Day for Bananafish”においてGlass家の長兄SeymourをSalinger 本人と同じ山羊座生まれ(12月22日〜1月19日)と設定し、Seymourに自分自身を投影して描く。しかし、のちにGlass家物語を書き続けていくうち、Salingerは自分の分身としてGlass家の次兄Buddyを設定する。そのため、“Zooey”では、Seymourを2月生まれに変更している。また、Seymourは“A Perfect Day for Bananafish”において自殺をしてしまったので、その後のGlass家物語を続けるにあたってSeymourを登場させる時には、家族による回想、前日譚、Seymourの残した手紙などを用い時間をさかのぼることでしか表現できない。

本発表ではまず、一読するだけでは気がつかないが仔細に検討すると見えてくる時間の歪みの痕跡をNine Storiesを中心としてテクスト内に見出していく。さらにそれらを、登場人物の内面と、特異な時間を使って書いたSalingerの意図の両面から考察していきたい。


北海道大学(院) 小塩 大輔

 

Flannery O’Connorの作品においては、体の部位に関連した表現の多さ、特に「口の表象」の多さが顕著である。Carter Martinら多くの研究者がO’Connor作品を象徴性から読み解こうと試みてきた一方で、O’Connor自身もまた、象徴性は物語中の細かな描写の意味が積み重なることで生じることを強調していた。では、一見些細ではあるが執拗に反復される口の表現にもまた、何らかの象徴的意味が含まれているのであろうか。本発表では、O’Connorの処女小説Wise Blood (1952)における口の表象が、主人公Hazel Motesの罪の所在を示すのみならず、O’Connorの創作に対する葛藤の一つの表現であることを明らかにしたい。

むろん、O’Connor作品における身体表象は、これまでしばしば議論されてきた。そのなかでも、身体的な欠損や目の表象に注目した先行研究は比較的多い。しかし、他の部位を含めた身体表象全般の重要性が認められ始めたのはごく最近のことである。Donald HardyのThe Body in Flannery O'Connor's Fiction (2007)は、O’Connorの身体表現を総合的に論じ、詳細な頻度分析により、O’Connor作品では顔、頭、目、口、脚などの表現が有意に多いことを明らかにしている。だが、Hardyらが主張するように、口の表象は他の身体表象と同じく、「グロテスク」な雰囲気の形成に寄与しているにすぎないのであろうか。

Wise Bloodにおける口の表象は、カトリック作家としてのO’Connorにとって主要なテーマである罪の問題を、言葉以外の方法で表現しているように思われる。例えば、偽りの盲目宣教師Hawksとその娘SabbathはHazelの口から罪の臭いを嗅ぎ取っている。加えて、 “WOE TO THE BLASPHEMER AND WHOREMONGER! WILL HELL SWALLOW YOU UP?”という”sign”をHazelは目撃する。冒涜的言葉で口による罪を犯しているHazelは、最終的に地獄の口に「飲み込まれて」しまうのであろうか。さらに、第2章では口の表象が姿を変えて繰り返され、決定的な罪の場面へと展開してゆく。街中の様々な”sign”に誘導されるようにしてトイレの個室に誘い込まれたHazelは、そこで売春婦の罪深い住所をメモする。その際に指に挟んでいた鉛筆のイメージは、次に乗るタクシー運転手の口の描写―煙草を唇の真ん中に咥えたまま動かさずにその両側から話している―へと変奏され、さらには売春婦の口から突き出された舌の描写にたどり着く。

偶然にも思われる鉛筆と口のイメージの共存は、同時期に書かれた短編作品”The Crop”における口に関する表象を経由したとき、新たな意義を帯びるであろう。その短編の主題は、複数の先行研究が指摘しているとおり、主人公の素人女性作家が抱えている作家としての葛藤である。そこでは、作家が抱える表現の困難さと口の表象が有機的に融合しているようにも思われるのである。Wise Bloodにおける口の表象という”sign”は、罪の在処、つまりHazelの口を指し示しながらも、同時に作家O’Connorの表現方法である執筆までもが冒涜的なものになりうる危険性を示唆しているのであろうか。本発表では、作品細部の分析からそのような創作の根幹に関わる問題へと議論を深めてゆきたい。


日本女子大学(院) 秋田 万里子

 

ユダヤ系アメリカ人作家Cynthia Ozick (1928- ) は、1983年のエッセイの中でイェール学派のHarold Bloomの誤読理論(驚異的な先行者の影響を克服することを目的とした後続作家による先行作家への意図的な誤解釈行為)の性質について、神の言葉を正しく伝達することを目的としたユダヤ教の教義に反するものであり、「天国の王座の強奪」(“to usurp the Throne of Heaven”)、つまり先行する作家の名声や威信を強奪する行為であると主張している。そして、誤読理論というシステムを作りだしたBloomを「芸術上の反ユダヤ主義者」と批判する。しかしながら、Ozick自身1966年の処女作以来、先行する作家の作品を自分の作品に取り込み作り替える行為を繰り返している。つまり、Ozickは自らが批判する誤読理論を自身の作品の中で実践し続けているのであり、Ozickの言葉を借りれば、彼女自身が「芸術上の反ユダヤ主義者」ということになる。

1976年に発表された中編小説集 Bloodshed and Three Novellas の中の一編 “Usurpation (Other People’s Stories)” は、Ozick自身の創作活動における自己矛盾と葛藤を描いた作品である。この物語は、作家志望の人物から原稿を預かったユダヤ人女性作家の語り手が、そのストーリーを勝手に改変しながら語るという入れ子構造になっている。Ozickはこの作品において、語り手に他者の作品のアイデアを盗用させるだけでなく、自身もBernard Malamud (1914-86) の1972年の短編 “The Silver Crown” の構成を部分的に取り入れている。ユダヤ人作家である語り手は、偉大な作家の名声という「魔法の王冠」を切望するあまり、ユダヤ教の神ではなく芸術の神を崇拝し、その結果、王冠は語り手の頭上から落ちてしまう。この結末は、自らが非ユダヤ的と非難する誤読理論的創造行為を実践し続けるOzickの自己批判であると考えられる。

本発表では、“Usurpation” における先行作品の盗用の問題に着目し、ユダヤの神という偉大な創造者を信仰する立場で、ユダヤ人が創造者になり得るのかというテーマを、Ozickがこの作品の中でどのように結論付けているか考察したい。