1. 第3室(2号館1階13番教室)

第3室(2号館1階13番教室)

開始時刻
1. 午後2時00分 2. 午後2時55分
3. 午後3時50分 4. 午後4時45分(終了5時30分)
司会 内容
石原  剛

1.Mark TwainのWhat Is Man? におけるMan-Machineについての一考察―「内なる君主」の自己改革

  比治山大学(院) : 坂本  愛

2.記憶の継承 ―Life on the Mississippiをダークツーリズムの観点から読む

  同志社大学(非常勤) : 別所 隆弘

後藤 和彦

3.トマス・ウルフ再読―長編作家としてのウルフと中編作家としてのウルフの間で

  京都大学(院) : 工藤 人生

4.<ニュー・ウーマン>へと進化する農園主夫人像―Ellen Glasgow, Barren Groundとダーウィニズム

  神戸大学(院) : 種子田 香



比治山大学(院) 坂本  愛

 

ユーモリストとして名高いMark Twainだが、晩年はペシミズムに陥り、晩作では悲観的な人間観を描いたとされている。本研究は、この定説に異を唱え、晩作におけるTwainの人間観に対する新たな解釈の可能性を示そうとするものである。

第一章では、後期Twain作品が悲観的であるとの見方をされてきた一因と考えられるWhat Is Man? のMan-Machineに着目し、Man-Machineとはどのような概念か、また、Man-Machineに備わっている「内なる君主」とはどのような働きを持つのかを明らかにすることを目的とする。

始めに、Man-Machineの持つ「内なる君主」の性質を明らかにし、その根幹には「内なる君主」の自己改革という働きがあることを論証したい。また、その働きかけを促す方法を、「内なる君主」の教育に焦点をあて、作中から例を引きながら考察する。さらに、「内なる君主」を図示することで、その構造を明確にしたい。本章の結論として、「内なる君主」の性質なるものに、自己の理想に向かって内発的運動を展開する自己改革の働きがあることを論じる。

第二章では、Mark Twainの哲学の具象化と言われているNo. 44, The Mysterious Strangerを題材に、本作でMan-Machineがどのように扱われているかについて、「内なる君主」の働きを示していると考えられる登場人物について論じることで究明し、さらに「内なる君主」の本質に迫る。

始めに、登場人物である44号とアウグストそれぞれの「内なる君主」の構造を、第一章で用いた、「内なる君主」の構造を図示したものを応用して明確にする。次に、物語の最初は、機械的な働きしかもたなかったアウグストの「内なる君主」が、人間関係の変化となる44号との関わりから、どのように影響を受けて変化を遂げたか、その変遷の経路を初期段階から最終段階までの3段階に分けて見ていき、最終的にアウグストの良心の目覚めまで論及する。最後に、Twainの導き出したMan-Machineがどのようなメッセージ性をもっているのかを検討し、Man-Machineとは、ただ人間の弱点を指摘することを目的とするのではなく、その結果路頭に迷う人間の心の救済と変革を目的としたものであることを明らかにしたい。

以上の論考から、晩年のTwainに対するこれまでの批評家の一般的な評価とは異なるTwain像が導き出されると考えられる。Twainの人間観には、ペシミスティックな「人間機械論」ではなく、人間の価値を追求し高めていくオプティミスティックなMan-Machineという考えが内在するという新しい解釈を展開したい。


同志社大学(非常勤) 別所 隆弘

 

本発表は、Mark Twainの自伝的旅行記であるLife on the Mississippiを、ダークツーリズムの視点から読み解く試みである。1990年代後半以後、人類の負の遺産を巡る旅がダークツーリズムという用語で表現されるようになった。ただ、この概念が用語として規定される以前にも、旅におけるダークツーリズム的要素は、旅行記を始めとする旅をめぐる言説の中には見出すことが出来る。というのも、このダークツーリズムという概念は、失われつつある記憶に対する哀悼の念とその継承を目的とする旅を指すのだが、そうした一種の教養的側面は元来旅行という行為に本来的に備わっているものだからだ。ただ通常の旅やツアー以上に、ダークツーリズムにおいては失われたものを想起しようとする「記憶」における努力と、その記憶を文字や映像などのメディアを通じて「記録」として残そうとする意志が強い。このような性質から鑑みてダークツーリズムは本質的に文学作品に馴染み易い概念と言えるだろう。そして、「記憶」と「記録」の間で揺れ動きつつ、自らの過去を現在と接続しうるナラティブとして再編しなおそうとするTwainの試みもまた、その「記憶」と「記録」への拘泥ゆえに、ダークツーリズムという概念を適用して解釈され得る可能性を有している。

解釈にあたって、本作品の構造的な特質にまず着目したい。周知の通り、この作品は執筆期間が長いために前半と後半では扱っている時代や社会状況、またTwain自身の年齢や立場に大きな変化がある。このような大きな違いがある以上、別々の作品として分けた方が瑕疵は少なかったはずであるにも関わらず、殆ど強引とも思えるやり方で一つの作品に仕立て上げられている。しかし、作品を一つの物として仕上げようというこの動機の核心にあるものこそが、ダークツーリズムと共鳴する要素、すなわち記憶の風化に対する抵抗と、記録に対する意志として見いだすことが出来る。作品はむしろ、時間的/文化的に断裂した空隙を意図的に含み込み、その裂け目が決定的な欠落となる前に繕うという手続きをとることで、一つの継続した歴史として紡がれる。一方そうした手続きには必然的に事実を改竄し、自らが望む形での「歴史」を作り出すという、フィクショナルな手続きを必要とするだろう。 Twainが自らの表象で欠落した歴史を 上書きしようとする時、そこにはその表象を消費する読者との共謀関係を見出すことが出来る。仮に虚構が介在したとしても、共有できる物語として歴史は語られ、そして読まれる必要があるのだ。この時、Twainにおける「記憶」と「記録」にまつわる問題系は、失われつつあるものを表象し、継承する行為としてのダークツーリズムに必然的に近づく。

本発表では、ダークツーリズムという用語の概説と、その文学的適用の範囲を定めた上で、この概念を適用してLife on the Mississippiを読み解き、 Twainの本作における文学的な達成がいかなる意味を持っているのかを考察したい。


京都大学(院) 工藤 人生

 

Thomas Wolfe(1900-1938)は、20世紀と同時にアメリカ南部の山国で生まれ、ヨーロッパ大陸とアメリカ大陸を数回遍歴し、アメリカの生活を噴き溢れる河のように書き、Look Homeward, Angel、 Of Time and the River、 The Web and the Rock、 You Can't Go Home Againの四大作を残した長編作家として知られる。しかし、The Short Novels of Thomas Wolfeの序文に寄せたC.H.Holmanのように、長編作家として見られていたWolfeを、中編作家として見直そうという試みが起こった。それは、Wolfeの長編小説に「統一がない、形式がない、筋がない」のは、彼の作品の自伝性(Wolfeの小説観)と(アズウェルやパーキンズとの)共同編集性にあることを指摘したものである。ホールマンは序文の中で、「逆説的ではあるが、Wolfeは1万5千語から4万語までの長さの中編小説において、最高の出来栄えを示す幾多の作品をものにした。(中略)しかし、これら[中編小説]はWolfeの作品集からは事実上姿を消していたし、彼の著作に馴染みのある読者にさえ、影をとどめなかった」と述べている。また、Malcolm Cowleyのように、「もしこれら[“The Web of Earth”、“A Portrait of Bascom Hawke”、“I Have a Thing to Tell You”など] が別々に出版されていたら、(中略)Wolfeは別の評判、即ち散文の叙事詩人としてではなく、中編小説と人物描写の作家としての評判を得ていたかもしれない」(“Thomas Wolfe: The Professional Deformation,”1957)という評価を下した批評家もいる。

これらの批評は、中編作家としてWolfeを論じる場合、非常に参考になる。しかし、Wolfeは中編作家としての道を歩まず、彼の自我意識は、長編作家を求めた。Wolfeは、“No Door”や“I Have a Thing to Tell You”といった中編小説群を、あえて分断し、長編小説の中に組み込んだ(“No Door”は9か所に、“I Have a Thing to Tell You”は5か所に)。なぜWolfeは、このような態度をとったのであろうか。なぜ、芸術的完成度の高い中編小説を寸断し、長編小説に挿入したのだろうか。おそらく「統一がない、形式がない、筋がない」という批判を浴びることを承知の上で。

本発表では、中編作家としてではなく、あくまでも長編作家にこだわったWolfeの小説観を、You Can't Go Home Again (1940)を中心に詳らかにすることを目的とする。そこには、自伝作家というレッテルを貼られ、共同編集との批判を受けても、従来の型にはまらない創作への使命感、そして中編小説には盛りきれなかった彼の生涯のテーマが、重層的に関わってくると考えられる。


神戸大学(院)種子田 香

 

1925年に出版されたEllen Glasgow(1873-1945)の代表作Barren Ground (1925)は、”the symbol of fate”(Glasgow, A Certain Measure)として描かれているヴァージニアの荒涼とした大地を、ヒロインのDorinda Oakleyが改良し征服していく物語である。この物語は、1880年代頃からイギリスで盛んに出版され始めたニュー・ウーマン・ノヴェルと、フランスで注目され始めたEmile Zolaを代表とする自然主義文学の影響が強く表れていると考えられる。ニュー・ウーマン・ノヴェルは、いわゆる「家庭の天使」の枠におさまりきれない「ニュー・ウーマン」のセクシュアリティを描き、結婚制度と男女の性役割を問題にしていることに特色があるのに対し、自然主義文学では、人は遺伝や自然の法則から逃れられないという環境決定論が支配する世界を描いている。両者に共通するのは、当時盛んに議論されたダーウィニズムとの関連であるが、両者の方向性は正反対である。Glasgowはこの決定論と自由意思をどのように受け入れられる形で小説に融合させるかに苦心していた。

Glasgowとダーウィニズムという研究テーマは、すでに1971年にJ.R.Raperが初期の作品について考察している。1870年代から20世紀初頭のアメリカではDarwinの『進化論』を直接社会に適用した社会進化論が広まっており、これはGlasgowの初期の作品が書かれた時期と一致する。この資本主義が爛熟した時代にGlasgowは人道主義的立場に立ち、ダーウィニズムを取り入れながら敗者の苦しみに脚光を当てて小説を書き続けた。さらに、アメリカ社会でダーウィニズムのブームが去った後に出版されたGlasgowの中期の作品Barren Groundにおいてもなお、ダーウィニズムの影響が見られる。

「ニュー・ウーマン」のDorindaは、科学知識を取り入れることにより先祖が成し得なかった土地の改良に成功し、ヴァージニアの不毛の大地を蘇らせる。小説のタイトルの”Barren”とは、Dorindaが子供を産まなかったことの暗喩となっているが、妊娠・出産しないという生殖を否定した形でしかビジネスで成功することはできなかったという意味も込められている。Barren Groundにおいては、ダーウィニズム的な遺伝の法則、適者生存といった理論を援用しながらも、そこに内包される生物科学の性差の強調から逃れるために、作者GlasgowはDorindaから恋愛感情を奪い、彼女を「先祖返り」させる要素を取り除かねばならなかった。土地改良というビジネスを成功させるのに必要な理性的な判断は、生殖の根源にある動物的本能とは相容れない、という当時の女性を巡る言説の限界も描かれている。

本発表では、Barren Groundに見られるダーウィニズムの影響を、「ニュー・ウーマン」として描かれるヒロインをめぐる決定論と自由意思の力関係に注目して考察したい。決定論から「ニュー・ウーマン」にヒロイン像の軸足を移していった軌跡を追いつつ、Glasgowが創り出した新たな女性像を明らかにしたい。